『受難の主日』の聖書と説教はこちら

待降節第2主日:メシア(救い主)の力強さは、愛するが故の最高の力です

この記事は約5分で読めます。
待降節第2主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

待降節第2主日(B年)の説教=マルコ1・1~8

2020年12月6日

自然界の移り変わりは、わたしたちの生活に微妙に影響してきます。身体的には着るもの、洋服など、季節の変化に伴って衣装替えをします。また、心のありようにも変化を来したりします。というのは、ある時は落ち込んでしまったり、逆に、また快活になったりと、日々、心のありかたも影響を受けるような気がします。

季節の花、ポインセチアに思いを寄せながら

今の時期になりますと、毎年のこととはいえ、不思議なことに、何かと気ぜわしくなってきます。直接にやることはそうそうなくても、いつの間にか時間が過ぎてしまいます。そしてクリスマスと続き、あっという間に大晦日です。

それにつれて、人々の雰囲気も変わり、街並みもにぎやかになってきます。街を華やかに彩る花々が飾られるからです。その目立つ花の一つに、みなさまもよくご存じのポインセチアがあります。苞が真っ赤な品種が一般的ですが、近年は品種改良によって苞がピンク、白、複色などの品種も人気を集めているとのことです。

メキシコ原産なので、もともと寒さに弱く、置き場は、なるべく明るい室内の窓辺で室温が10度以下にならない場所が適しています。温度が低いと根の成長が悪くなり、水を吸い上げられず、根が腐りやすくなります。冬季の水やりの目安は、10日から2週間に一回程度で、乾燥気味に育てたほうが花にとって安心安全な環境ということが言えるようです。(南日本新聞2020年11月26日朝刊)

さらに、温かい人間の気持ちを添えて手を加え、面倒を見ることによって、くる年もまた、わたしたちを楽しませてくれるのです。

404 NOT FOUND | 教会のITサポート:826村
826村のテーマは、インターネット教会(電子教会)の研究です。

きょうの福音書では、洗礼者ヨハネが教えを宣べ伝える姿が描かれています。その中で、「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と宣べています。救い主の力強さが強調されています。

貧しく生まれた幼子に力強さは感じないが…

とはいっても、ベツレヘムの星空の下で、貧しい羊飼いに見守られている幼子の姿に、力強さが見えるかといえば、そうも言えない気がします。当時の国の権力者、ヘロデ王の迫害の手を逃れ、エジプトへ逃避しなければいけなくなったように、弱い姿が目につきます。でありながらも、メシアの訪れを告げる聖書の記事が、その力強さを語るのはどのような意味でしょうか。

たしかに人間権力の前では強くない姿かもしれませんが、このような地位に基づく強さは、自分勝手な欲望を満たすためには弱いものを無視し、逆に、己の欲望追及のために弱いものを利用する形を取ってしまうものです。さらに、人としてのやさしさのない権力には、人を引き付けるだけの魅力がないのも一般にいえることです。

したがって、「力強さ」にもいろんな強さがあるのでしょう。見た目に強いと思われがちな地位に基づく強さ、逆に、見た目には弱弱しく見えるやさしくて、しかし、力持ちといわれる愛による強さもあります。これは、誰もが安心して頼れる安らぎ感も与えてくれます。まさに、イエスの話の中に出てくる羊と羊飼いの関係です。わがままな羊たちの世話をするのに草のある場所に連れていくにも忍耐深い強さが必要です。弱い羊たちを守るにも、それらの弱さを背負っていく強さがないとできないことです。

騙されても、味方であり続ける忍耐強い「愛」

メシアの力強さは、こうした羊飼いの愛にあふれた強さに他ならないといえます。イエスの生き方そのものに、その「力強さ」があります。わがままな人間を相手にし続けることには、かなりの忍耐が求められたことでしょう。その弱さと愚かさを受け止め、その人のためになるには、本当の意味で力強さがないとできないことではないでしょうか。傷つけられてもいい、騙されてもいい、それでも、その人の味方で居続けること、ここに「愛の心」でしか説明できない力があります。イエスの十字架の死は、まさに、人間のみじめさをすべて受け取ったイエスの愛の頂点です。だからこそ、イエスに裏切られることはないのです。そして、多くの民衆に慕われ、皆はその教えに感銘を受けたのでした。安心してわが身を委ねることができるのです。

そして、わたしたちはもっと豊かになり、わたしたち自身が、周りの人々に安心感を提供できるようになっていきます。これが宣教なんでしょうね。

とはいうものの、現実のわたしたち人間は、愚かで欠点だらけです。その上、自分勝手でわがままです。自分のえり好みで動いてしまい、自らの楽しみだけを追及して、自らを、結果として悲惨な状態へと追い込んでしまうのです。その「わたし」を今でもなお、相手にし、ゆるし続けるイエスがいるのです。「わたし」を愛するがゆえにゆるし続けるイエスがいるのです。

メシアの力強さは「ゆるし続けて」いること

「ゆるし続けていく」ということの中に、メシア(救い主)としての最高の力があらわれています。だからこそ、わたしたちは信頼と安心と安全のうちに信じ、希望し続けることができるのです。だからこそなお、わたしたちとしては、立ち直るきっかけを見逃さないことです。

ポインセチアだけでなく、他の植物類もその生長への環境が整う限り、その生長に狂いは生じません。決められた通りの生長の歩みを進むだけです。しかし、人間には選択の自由が付与されています。だからこそ、「救い主の強さ」にもっと気づくべきでしょうね。一人ひとりの成長の環境はすでに盤石です。

それは、やさしい強さです。愛するが故の強さです。愛されている者の強さを実感しましょう。

【12月6日】待降節第2主日(B年)の聖書はこちら

コメント

タイトルとURLをコピーしました