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待降節第3主日:「わたし」に向けられた神の恵みへの道に気づいて欲しい

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待降節第3主日(B年)の説教=ヨハネ1・6~8,19~28

2020年12月13日

福岡市の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」現地代表の中村哲さん(当時73歳)がアフガニスタンで、現地の人5人とともに凶弾に倒れて4日で一年。

ペシャワール会・中村哲さん逝去一年を機に

中村さんは、医師としてパキスタンの現地へ入りはしたものの、無医村の人々に接しながら、重症の患者の泣き叫び声に自身の無力を感じ、おのれの人生を否定するに至ったといいます。(南日本新聞2020年12月4日朝刊)

それでも、医師として現地に入ったからには、治療に従事しながらも、また、治安悪化の影響を受けてしまうのです。そして、拠点は次第にアフガンへと移動していきます。2000年に大干ばつに襲われると、中村さんは「薬より水が必要」と考え、医療活動の枠を超えて井戸掘りや用水路建設に軸足を移したのでした。

大統領が「人道や思いやりの象徴」と称賛

アフガン国内では4日、追悼の動きが広がっています。ガニ大統領はビデオ演説を公開して「人道や思いやりの象徴」と中村さんをたたえ、市民らも集会などで感謝の思いを口にしています。なんといっても、中村さんは難民化した農民たちが生きてゆくべく、1400本の井戸を率先して掘った人であり、井戸では答えがなくて、砂漠化した農地に水路をつくった人なのです。これらが、何よりの「思いやりの」証になったのです。

事件は未解決のままです。あるアフガン人の男性は「中村さんの偉業を次世代に語り語り継ぎたい。政府は襲撃犯を早く拘束して刑罰を与えてほしい」と語っています。また、民放トロテレビは、中村さんの功績を振り返る追悼番組を放送しています。首都カブールの学校に通うルスランさん(14歳)は、番組を視聴し「中村さんのように努力して目標を達成できる人になりたい」と話しています。(南日本新聞2020年12月6日朝刊)

ヨハネの叫び『主の道をまっすぐにせよ』とは

待降節では、いよいよ恵みへの道を示す「声」がこだまします。神を見失った人・心への悔い改めを訴える「声」なのです。それをヨハネ自身は、自らがそれであるといいます。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』」と。これは、「エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、『あなたは、どなたですか』と質問させた」ことへのヨハネの答えです。

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その声は、荒れ野で叫ばれるのです。「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」(マタイ3章4節)荒れ野は、神との純粋なかかわりの中で生きようとしている人々にとって、試練の場でした。ヨハネもその中の一人だったといわれています。彼は神の側に立ち、神を証しする人です。「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」と福音書は語っています。したがって、彼が叫ぶ内容は、神の思いです。

それは神の恵みへの具体的な道を指し示すこえ

人間の叫ぶ声にはいろいろなものがあります。しいたげられた人々の叫び、悲しみの中にある人々の嘆きの叫び、それとは反対に、何かの賞を受けた時の喜びの叫び、さらには、声にも出せない程の心からの叫びなど、様々です。これらの叫びが、真剣であればあるだけ重みが増します。そして、「叫び」は、普通ではないとき、状況になったときに自ずと出てくる動きといえるのではないでしょうか。

ヨハネの叫びは、人々による、「神を無視する」姿に絶えられなくなって出た、心からの叫びだったのです。つまり、神への目覚め、悔い改めを訴えていく荒れ野に響く「声」でした。神を無視して生きようとする世界への強烈な呼びかけです。それは、ヨハネにとって、当時の人々の心に、神の姿が消えかけている現実を、見て取っていたからこそ呼びかけることができたのです。人間の救いのための叫びなのです。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」と。ヨハネの叫びは、具体的に恵みへの道を指し示す声でもあったのです。現代でも同じことは言えないでしょうか。

ヨハネの証が今のわたしに浸み込んでいるか?

アフガンの中村哲さんの証し・思いやりは、アフガンに残されている井戸、完成した水路の恩典に与っている現地の大人、子どもに多大なる影響力をもって引き継がれています。一人ひとりの命にかかわる重要なことなので、中村さんの思いと業績のありがたさは、人々の心の奥にしっかりと刻み込まれています。

一方で、ヨハネのわたしたちへの証しはどうでしょうか。具体的な道を示されながらもピンと来ていないのではないでしょうか。ヨハネの強烈さだけが残り、メッセージの中身が残っているでしょうか?洗礼者ヨハネが、当時の人々に叫んだ声は、今のわたしたち一人ひとりにも向けられています。それが心に染み透っているでしょうか。

ところが、神の恵み、神の愛、神の思いは、わたしたちの中に、心にすでに注がれているのです。わたしたちはそれに目覚めているでしょうか。その現実に気づいているでしょうか。

信仰者としての心の滅びから立ち上がりましょう。あのアフガンの人々は、「証し」を日々の生活の中で感じ取っています。わたしたちも、今の日常で人、できごととの出会いを通して、「わたし」に向けられた、ヨハネの「神の恵みへの道」を示す叫びを感じ取っていきましょう。

 

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