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待降節第3主日:子どもの頃「よろこびの主日」と言われていました

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待降節第3主日(A年)の説教=マタイ11.2~11

2013年12月15日

今日の主日は、子どもの頃「よろこびの主日」と言われていたことを思い出します。確か、大先輩の神父さま方は、バラ色(ピンク)の祭服をつけてミサをなさっていたような気がしますが、・・・。

話は全く変わりますが、先日、幼稚園のクリスマス会がありました。今までもそうですが、この日はみなの顔が輝いています。子どもたちはもちろんのこと、親御さんも教職員も張り切っています。どうしてそうなるのか。「クリスマス会の日」だからです。

子どもたちの育ちの、今の実りを体験できるからです。特に親御さんにとりましては、確実に成長したわが子を見ることになります。 だって、子どもたちはいつも本気でかかわるからです。ここに子どもたちの素晴らしさがあります。失敗、成功と考えるのは周りの大人であるわたしたちです。子どもはひたすら「一所懸命」だけなのです。

子どもたちは喜び、楽しみを感じることはあっても、意識的に味わうことはあるのでしょうか。でも、大人になって、判断力が身についてきますと、喜びよりも悲しみの方が多いなと思うようになります。その逆に感じる方もあるでしょうけれども。

思い通りにならない人生、そこにはわたしたち人間の限界と無力さがなせる閉塞感がただよっています。成長していく過程で、思い通りにいかない体験が次から次へと起こりますと、どうしようもないやるせなさが身に沁み込んでいきます。たとい喜びがあるとしても、その中に浸りきれない現実に気付かされるのです。そして、最悪の場合、自らを絶望のふちに追い込んでしまいます。

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こうした現実を前にして、今日のみことばは、ヨハネを通して真の喜びへの神からの招きです。「よろこびおどれ」というパウロの叫びも、イエスさまの癒しも、人間のもろさの中で、人間をみたしてくれる唯一の神の支えです。このことを喜びと感じているでしょうか。招きと同時に問われています。 子どものもっている「一所懸命さ」のように、わたしたちもひたすらにそうありたいものです。いつも真の喜びを見つめて。

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