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待降節第4主日:世界の救いと平和のために、「わたし」は神とともにいる

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待降節第4主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」

待降節第4主日(B年)の説教=ルカ1・26~38

2023年12月24日

自民党安倍派の政治資金パーティー裏金問題を巡り、日本国全体が揺れているのではないでしょうか。昔から耳にしていたことですが、「政治家ではなく『政治屋』」ばかりだ、と。先輩たちからよく聞かされたものでした。どういう意味?と聞くと、「いかにして金をつくれるのか、金の入手だけを考えた彼らに、政治を語る資格はない」と。さらに「言葉を操るだけで、中身がない」と。そういわれると、当時は何となく納得している自分がいましたね。

政治資金パーティー「裏金問題」を巡って

みなさんは、今のこの状況を見てどう思われますか。過去にもあった、似たような金の問題(リクルート、佐川急便)は、いつまでも続くんですかね。日本政治の体質なんですか。ひょっとして、世界の政界はどこも同じ・・?

さすがに、何人かの鹿児島県の市民の声が紹介されています。(南日本新聞2023年⒓月15日朝刊)

肝付町前田の畜産会社に勤める田中英樹さん(32歳)は「(裏金問題は)はたして自民党だけだろうか」と政治全般への不信を問題にしています。「政府には国民を向いて仕事をしてほしいが、あまり期待はできなそうだ」と声を落とされています。そういえば、国民に選出されたという意識がゼロ? そんな感じはしますけどね、・・。

子育て世代からは切実な声が相次いでいます。2歳の娘を育てる鹿児島市星ヶ峯4丁目の主婦福元由利子さん(37歳)は「政治家が得するような仕組みになっていて、あきらめを通り越した」。3歳の息子がいる同市の主婦(32歳)も「私腹を肥やしているようで印象が悪い。将来が不安で2人目の出産はためらう」とお話しています。

霧島市国分の主婦松尾都さん(66歳)は13日の夜の岸田首相の記者会見を「信頼回復へ火の玉となると言っても、その場しのぎにしか見えない」と言い放っています。また、2年前に問題視された月額100万円の「調査研究広報滞在費」を巡る議論が進まない現状に触れ、「放っておけば国民は忘れると軽んじているのだろう。厳しい生活を送る庶民の気持ちを政治家は分かっていない」と切り捨てておられます。

「長年やってきた慣習だから、・・記載しなくてもいい」ということで、せっせと裏金工作、約5億円を今までは「穏便に?」やってきたのでしょう。まさに組織ぐるみですね。それでも、「裏金」という意識がなかったということでしょうか、「悪かった」ということが認知されていないように思えてしょうがない。「政治の混乱を招いて」「迷惑をかけて」「責任を感じて」という言葉は出てきても、「国民に申し訳ない」「悪いことをしてしまって・・」という心の思いと、国民への言葉は全くありません、わたしがニュースで見る限りにおいて。ある人が言っておりました。「まさに脱税じゃないか」と。

人間はみな弱く悪に無防備で染まり易い

わたしたちは誰でも弱いです。良いことをしたいとは思っていても、むしろ勇気がいります。さらなるエネルギーを必要とします。でも、悪いことをするときは、何となくやってしまうことが多々ありますよね。あまり考えていないんですね。だから、悪に対しては無防備に近く、染まりやすいわたしたちです。善にはなかなか染まろうとしないんです。これが今の人間の実態でしょうか。

「おめでとう、主があなたと共におられる」

こうした人間の状況の中にあって、それでも、いや、だからこそ、人間を救うためにと、遠大な目的をもってイエスはこの世に誕生します。このことをひたすら持ち望んでいたイスラエルの民、中でもマリはその代表格として今日の福音に出てきます。民が、これまで祈り求めてきたこと、待ち望んでいるものを最初に受け取ったのが、中でもマリアだったということです。だからこそ、わたしたちはまず、マリアに取次ぎを願うのです。その瞬間が、神からの祝福を受けたマリアに告げられた、大天使ガブリエルの「お告げ」の場面です。

待降節第4主日:わたしは主のはしため。お言葉どおり、この身に成りますように
待降節第4主日(B年)の福音=ルカ1・26~38 〔そのとき、〕天使ガプリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。

そのメッセージとは「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。・・・マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

神の救いの計画が、大天使ガブリエルによって示されました。マリアはすぐにその意味することを理解できたのでしょうか。そうでもなさそうです。「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」のです。この計画を直ちに理解できたわけではなかったのです。

「神にできないことは何一つない」

さらに天使は続けます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」と。

ここに至って初めて、マリアは神の救いの業への参与を受諾するのです。神がマリアの受諾を願っている、必要としていることがわかったのでしょうか。でも、マリアは、「わたしは男の人を知りませんのに」のように、マリアの心が、人間的な可能性に縛られている限り、承諾へ向かうことはなかったでしょう。

それでは、どうして受諾することになったのか。戸惑いから承諾へと変えられたのは、「神にできないことは何一つない」という天使の言葉に心を向けたとき、委ねたときに承諾への道が開けてきたのです。つまり、神の力への信頼を呼び起こさせたことにありました。神の救いの計画は、人間の理解が追いつくような類のレベルではなかったのです。

「恵み」⇒「主があなたと共におられる」

だからこそ、神の恵みが必要だったのです。「恵み」というのは、どのようなものなんでしょう。それは「主があなたと共におられる」ことなのです。恵みというのが「もの」ではなく、「かかわり」方に重きが置かれていることに注目したいです。「神がひとみを向ける」「神が顔を向ける」という表現の中に、イスラエルの民は神の恵みを感じ取っていたのです。

だからマリアも讃えます。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。」(ルカ1章47節参照)

神が誰に目を向けているか、自由です。でも確かに、一人ひとりは目を向けられているのです。「わたし」は振り返って応えているでしょうか・・・。

特に世のリーダーと呼ばれる人には、気づいてほしい、

人間の力を超えたところの「真」に・・・。

 

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