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聖家族:「子は神の賜物」とみることができれば、その喜びは大きく広がる

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聖家族(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

聖家族(B年)の説教=ルカ2・22~40

2023年12月31日

過度な便利追求で、幼児の成長が阻害される?

今の子どもたち、中でも幼児期にある子どもたちが、日々を過ごしている人的環境、生活環境、自然環境、社会環境はこれでいいのでしょうか、と思うことがあります。確かに、生活するうえで便利になったことはありがたいことですが、便利さばかりを追求するあまり、反面、子ども自らの人としての成長が阻害されていないかと危惧します。特に人間関係、その中でも、親子のかかわりは、子どもにとって最も大事なように思いますが、・・他者とのかかわりへと展開していく始まりとして。

それが何かといえば、人としての温かみ、つまり人間ならではの「慮る心」が育っていないのでは、・・。このことは、表現を変えれば、他者とのかかわりの中で育っていくはずであろう「自分自身」を期待できなくなるし、人としての情も十分に育っていかなくなるようで。こうなると、いわゆる、「デジタル人間」が育っていくのでしょう。仕事を遂行していくことは完璧に実行できるとしても、周りの状況を考慮しながら、また、他者の気持ちへの配慮をしながら行動することが難しくなりはしないか、と思うのです。

「人の振り見て我が振り直せ」という言葉があります。他人の行いの善し悪しを見て、自分の行動、態度、ふるまいを反省し、改める材料にせよということのようです。わたしたちは皆、他者との交わりの中で、より人間らしい振る舞い方を学び、成熟した大人として、社会人としての成長を成し遂げていくものです。

どんな人にとっても、人との交わりの始まりは家庭内の親子、兄弟、姉妹の間からでしょう。特にお母さんは、赤ちゃんにとって、この世で、最初に出会う人です。したがって、人とのかかわり合いは身内からはじまって、徐々にその範囲が広くなり、さらに密度も濃くなっていきます。

聖家族:幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた
聖家族(B年)の福音=ルカ2・22~40 モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親は〔イエス〕を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。 《それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。

教会暦では、キリスト誕生後の最初の日曜日は、聖家族、イエス、マリア、ヨセフの祝日になっています。イエスもこの家族の中で、他者との交わりのあり方を学び、そしてより広く、よりたくさんの人々との交わりへと展開されていったのでしょう。

神殿奉献とは「子どもは神のもの」という宣言

いつの時代も、どの国、地域においても、「子育て」は大変な仕事です。マリア、ヨセフの子育てについて、その詳細が聖書にしるされているわけではありませんが、今日の福音に出てくる「神殿奉献」は、古くから伝わるユダヤ人の習慣とはいえ、「子どもが神のものである」という宣言をするものでした。

人は「跡継ぎ」「子孫」にこだわりますよね。それは、アブラムも同様でした。そして、そのことは一族への祝福を保証するしるしとして受け取られていたのです。

そもそも、子どもはどのような存在なのでしょうか。聖書には次のように記されている箇所があります。「主は子のない女に母の喜びを与え、子どもとともに家に落ち着かせる」(詩編113の9―フランシスコ会訳)確かに幼子は、打算の混じらない、かけがえのない喜びを親に与えます。そうであれば、子どもは二重の喜びを親にもたらすということができます。ひとつは親が生き続けるためよすがとしての子どもがもたらす喜び、もう一つは目に入れても痛くない「かわいい」としての子どもがもたらす喜びです。「子は神の賜物」とみることができれば、その喜びは大きく広がっていきます。

「神殿奉献」のために上京する聖家族。この事実からうかがえることとは、マリアもヨセフもイエスの身近にいたにもかかわらず、イエスがどのような方なのかを知ることはありませんでした。シメオンの言葉によって、両親はイエスに定められた生き方を知らされます。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

「神のみ旨」と子どもに対する親の期待の葛藤

どんな親も、全身全霊を尽くして子育てに当たっています。マリアもヨセフも、同じように養育に当たったことでしょう。でも、子どもに対する神のみ旨がどのようなものなのかをわかる人はいないように、マリアにもヨセフにもわからなかったのです。子どもの成長につれて、それが徐々に具体化していくのかもしれませんが、親にとっては思いがけない内容であったりするかもしれません。親の期待を裏切ってしまうことになるやもしれません。その時、親は苦しみます。辛いでしょう。

そのようなことがマリアとヨセフにも訪れるのです。それはイエスが12歳になった時のことです。ユダヤ社会の共同体に参与する資格を得たあかしとして神殿に詣でます。いまの時代の社会にあてはめれば、20歳の成人式の祝いの時です。今の親がそうであるように、マリアとヨセフにとっても喜びでした。長い子育ての期間が過ぎ、親元から離れていくであろう我が息子、意外なことから、そのことをもろに体験してしまうのです。それは、神殿からの帰りの道中に、イエスがいなくなったのです。

マリアとヨセフも味わった親としての不安

この出来事は、子育て奮闘中のマリアとヨセフにとって、親としての体験を生々しく味わうことになりました。両親はイエスを見て驚いたのです。そして「 母が言った。『なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。』すると、イエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか。』しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。」そしてマリアは「これらのことをすべて心に納めていた」のです。

イエスの人となりは、マリアとヨセフに負うところ大です。やさしさ、温かな配慮する心、微笑み等、すべてが親から引き継がれているものでしょう。

今もなお、子どもにとっては、親の、大人の一挙手一投足が全て、生きるための「生き字引」であり、エネルギーなのです。

 

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