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年間第32主日:取り返しのきかない決定的な未来、その重みに「今」目覚める

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年間第32主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

年間第32主日(A年)の説教=マタイ25・1~13

2023年11月12日

自分の人生で記憶に残る決定的な時、場面とは?

年齢が若いときと年を重ねてからの今とでは、世に起きている事件事故を見て、感じる中身に違いがあります。当り前といえばそれまでですが、最近では情報を得た後、何となく落ち込みやすくなってきているのではないかと感じるんですよ。その頻度が多くなってきたかな、と。だから、年を取っていくとさびしがり屋になっていくのでしょうかね。みなさんはいかがでしょうか。

ところで、大げさな言い方になるかもしれませんが、「わが人生」で決定的な、記憶に残る大事な時、瞬間といえばいつなんでしょう。学生時代は入学校受験時(?)社会人としての門出の入社試験時及び面接時(?)でしょうか。人によりさまざまでしょう。でも、その「瞬間」「時」があるのは確かではないでしょうか。あるんだけど、そのことに気づいていないという場合が多いのかもしれません。後で振り返って、「あの時」だったんだと思い知らされる時があるからです。

個人的なレベルでは、その「時」はありますが、国家レベルでも、各市町村レベルでもあるのではないでしょうか。一般に言う「~記念日」といわれている日の多くは、そのことを意味しているのではないかと。

一般的な出来事は、時間とともに忘れ去られるが

一般的に言って、世に起きる出来事は、ある時期が過ぎると、マスメディアも取り上げることもなくなり、出来事に対する国民の関心度も低下していきます。仮に、そのことがわたしたちの日常生活と直接関係があったとしても、身近に感じ、「わたし」の生活そのものに直に響いてこなければ、それぞれの意識の中から消え去っていきます。

その経緯をたどるとすれば、ひょっとして、「川内原発問題」もそうなっていくのかなと想像できます。でも、これこそ「わたし」の問題でもあるのに、・・。このような姿勢だから、行政トップ側は、あらかじめ計画された手順にしたがって、それこそ粛々と歩を進めていくんだろうなと考えてしまいます。いつものパターンだから、・・。

川内原発運転延長が決まった日の位置づけは…

2023年11月6日は、原発賛成派にしても、反対派にしても記憶に残る、重要な日となったのは事実でしょう。川内原発1,2号機の最大20年の運転延長が認可されたのです。人々の中には、原発運転推進派がいて、反対派がいます。双方の考え方があってもおかしくはないでしょう。が、原発運転に関して、原子力規制員会が安全、運転延長を承認、認可したとしても、絶対的な、完璧な安全はあり得ないです。あくまでも人間がすることですから。規制委員会もそのような言い方はしていないと思います。あくまでも「安全基準」に適合しているという判断でしょう。

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どうしても、わたしたちは未来にどうなるかが主要な問題なのではなく、今の生活が問題、大事だからです。そのほうがわが人生の輝きを体験、実感できるからでしょう。この点からいけば、わたしたちは即物的であり、現実主義者であります。確かに、いつ訪れるかわからない時、ことを待ちながら、気持ちを集中させていくことは大変なことです。その上、疲れを感じてしまいます。現実の魅力の方にどうしても惹かれ、のめり込んでしまいます。どうしても、今の時の楽しさや安らぎ華やかさの虜になってしまうのです。

信仰の世界では、今より未来の現実に重きをおく

ところが信仰の世界は、今の現実よりも未来の現実に重きを置きます。今は未来への過程であり、途中です。決定的な時は未来にあるのです。その時はやり直しがきかないのです。ですから今は、その未来に向けて走っているのです。今の在り方が、生き方が、決定的な未来のその時に意味を持つのです。

花婿を迎えに出る十人の乙女たちのうちに、賢い5人と愚かな5人の乙女たちがいます。そのちがいを生み出した原因は、「愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。」とあるように、「油」を用意していたか、いなかったかにあるようです。賢さを示すしるしは「油」にあります。その結果が現れるのが、花婿が遅れてやってきたその時でした。「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。」

未来のために今をどのように準備すべきかが大事

愚かな乙女たちは、未来の現実の重大さに目覚めていなかったのです。未来の意味、自らの奉仕の重みある役務の中身をつかんでいなかったのです。また、今の現実、眠気をもよおす気持ちよさに負けてしまいました。それゆえに、宴会の会場に入れないどころか、戸が閉められ、家の主人に「わたしはお前たちを知らない」とまで言われてしまいました。

「戸が閉められた」ということは、このたとえの中で重要な意味をもちます。「わたしはお前たちを知らない」という言葉は、いわば最後通告でしょう。「戸が閉められた」という言葉は、そのことを意味しています。そして、乙女たちは区別されます。5人は宴会場へ、5人は外の闇に放り出されました。これはもう覆すことが出来ないのです。

だから、花婿を待っている現実(今)を、いかなる準備をして過ごしているかが、未来の現実での区別を生じさせるのです。

わたしたちは今を大事にしながら、未来の現実がどのようなものなのかを、「今」からしっかりとわきまえておきましょう。

 

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