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年間第31主日:一番偉い人、それは「仕える者」「へりくだる者」です

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年間第31主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

年間第31主日(A年)の説教=マタイ23・1~12

2023年11月5日

人間の社会における「権威」とは…

2024年7月、‘25年11月にそれぞれ運転期限の40年を迎える九州電力川内原発1、2号機(鹿児島県薩摩川内市)の最長20年の運転延長の可否を決める原子力規制委員会の定例会合が11月1日にも開かれる見通しであるとのこと。

この定例会を前に、鹿児島県の市民団体「川内原発20年延長を問う県民投票の会」が、反対署名簿を県当局に提出し、それを受けて県議会が開かれたのです。結果は県民投票を実施しないことに決しました。

川内原発延長の可否を問う”県民投票”

住民投票という直接民主制の仕組みを起動させるかどうか、県議会が県政の歴史に刻まれ得る決断を下すその前に、「社説」が論じていました。

「日本の地方自治制度で、自治体は基本的に間接民主制で運営される。選挙を通して選ばれた首長と議員という二元代表が住民の意思を反映して地方行政をつかさどり、チェック機能を働かせる。これを補完するために地方自治法に準備されている仕組みが、直接民主制に基づく住民投票などの直接請求制度だ」との説明があります。(南日本新聞2023年10月26日朝刊)

福島の原発事故が、地震という自然界の出来事が起因になったとはいえ、大きな被害をもたらしてしまったことは、まぎれもない事実です。そして、脱原発の気運が高まってきたのです。しかし、今また、脱炭素社会の実現や運転時の低コストを理由に原発回帰の進路を取り始めています。

もちろん、暮らしや産業を守らなければならないからこそ、エネルギー源としての原発の有効性を信じる意見もあります。また、国が定めた基準に基づいて安全を確認したうえで既存の原発を延命して発電量を確保する国策に、すんなり同意する県民もいるでしょう。いずれにせよ、県民投票が実施されれば、県民の間にこれまで以上に、それぞれが持っている意見を吐露する機会が増え、問題意識と関心が高まり、実質的な対策の構築に、その一翼を担うことになりはしないだろうか、と勝手に思ったりしていました。でも、傍観者ではいけませんよね。

ウクライナ、パレスチナでの”武力衝突”

どんな組織にしても、権威ある地位につきますと、その人の物言いにしても、行動の影響力、結果については、他の人々よりもその責任が問われてきます。人によっては、地位にある人をひたすら「こき下ろす」ことだけに力を傾注している者がいるとか。大げさに言えば、それを仕事にしているのかと思わせるほどの生きがいを(?)、見せる人がいます。近くで見ていますと滑稽な感じがします。

人間の社会で「権威」とはどのように捉えられているのでしょう。どのようにお考えですか。人が集まるところには社会が生まれます。どうしても人間の持つ「欲」が、群の中にいると頭をもたげます。いわゆる、権力闘争です。動物の世界がそうであるように、人間の世界でも同じことが繰り返されています。まさしく今、世界では紛争(ウクライナとイスラエルで)が繰り返されています。

知恵ある人間には、このことを是とする人、非とする人があります。そして、その意見にはちゃんとした理由があります。さらに、なにがしかのプロセスを経て、結果、支配する人、される人が生まれます。また、このことがあらたな闘争の火種となって次に形を変えたりして勃発するのです。この繰り返しが「人の世」なんですかね。あまりにも空しさを感じてしまいます。

イエスとファリサイ派の対立とは

でも、その規模は小さくても、イエスの時代にも似たような「世の姿」がありました。当時の民の指導者となっていたファリサイ派のグループとイエスとの対立です。この関係が常態化していて、今日の福音ではその一つ「権威」についての話です。

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世の中には、せっかくお付き合いをするというのに、相手の方の弱さ、足りなさばかりをあげつらって、自らそのかかわりを打ち壊しにいく人がいます。だったら、初めから付き合わなければいいのに、と思いますが、後に分かったことですが、その人の存在が、自分の欲求実現を邪魔しているので排除したかったのです。こうした現象はいつの世もよく聞く話です。

イエスとファリサイ派の関係も、これと似たようなものだったのではないかと推測されます。とにかく、イエスがファリサイ派にとっては邪魔だったのです。一つは、自分たちの社会的地位が脅かされること、二つは、民衆がイエスの方になびき、自分たちの権威が脅かされることです。

権威は常に堕落に傾く!注意必要

いつの世も、権威と指導者は注意していないと、徐々に堕落への道へとわたしたちを誘い込んでしまいます。その立場にある人に求められている役職を忘れ、人の上にたっていることだけを求めてしまうことになります。それは魅力的です。なぜなら、人々の心の奥には、潜在的にその思いが生きているからです。また、自分の思い通りに人を動かせることは、心理的にも快感となります。その地位を使って利益を上げることもできようになるでしょう。人間の中にエゴイズムが毅然と生きている限り、「権威」は常に堕落傾向に向かっています。否、少なくともそうなる可能性が大です。

権威そのものは意味がありますし、大事な価値あるものです。しかし、生かし方を誤るとその効力が失われていきます。ファリサイ派の場合がそれにあたるでしょう、とイエスは言われます。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」からです。彼らは、社会的地位を求めるだけの世俗性を強調し、イエスはそのことを批判なさっているのです。もっと言えば、偽善性、怠慢、これらは神とのかかわりを育てていくのを妨げてしまう最大の毒です。

ファリサイ派は掟について、人々に雄弁に語りますが、自分では「行わない」者たちです。それはあくまでも「人に見せるため」であるのです。権威は神由来であり、それを忘れると、彼らの眼差しは神にではなく、人々に向けられていきます。人々からの拍手喝采、尊敬を受けるためにです。

イエスに従う弟子のうちで一番偉い人は「仕える者」です。言い換えると「自分を低くする=へりくだる者」です。隣人愛は、その根底にあるのが「神に仕えている」ということです。

そして、それを初めに示した方、それがイエスです。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピの人々への手紙2章6~8節参照)

 

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