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年間第30主日:「隣人愛」、それは神への「わたし」の感謝の応答

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年間第30主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

年間第30主日(A年)の聖書=マタイ22・34~40

2023年10月29日

意識せずとも、人は互いに影響し合っている

時が過ぎ時代が変わったとしても、人同士のかかわりあいに、そうそう変わるものはないでしょう。まずは出会いがあって知りあい、そして、信頼の情が芽生え、愛情がそれをさらに育み、互いの関係をより豊かな、充実したものにしていきます。これらのことをわたしたちはほとんど無意識のうちに行っています。

人との出会いは、それこそ偶然に出会ったり、ある人からの紹介だったり、または、仕事の上での出会いだったりと、人それぞれです。ある時にはその出会いが大いにプラスに作用したりもするし、逆にマイナスに作用するときもあります。どのようなかかわりであっても、基本的には大なり小なり相手の方に影響を与え、逆に受けたりするのが普通でしょう。

時には、自分の人生が大きく変えられるような人に出会うこともあります。変えられなかったとしても、人生訓なるものを受けた体験をお持ちの方もいらっしゃるのではないでしょうか。

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よくご存じのように、「朱に交われば赤くなる」という言葉があります。わたしが何となく受ける印象として、今では、この表現は、よくないものに感化される場合に使われることが多いようですが、善悪どちらの影響にも使うことができる言葉です。その意味は、人は交際する友人や身を置く環境によって良くも悪くもなるものだ、という意味です。「朱に近づけば必ず赤し」とも言います。朱というのは印肉や漆器などに使われる、黄色味をおびた赤色の顔料の事です。少し触っただけでも染まってしまう事から、接する人の影響力の強さの例えに使われています。よい友人を選ぶこと、よい環境に身を置くことが大切であることを教えたことわざです。(word-dictionaryコトバの意味辞典)

だれもが気になる、自分の上司はどんな人か

人にしても、書物にしても、その他の出来事にしても、それらから受ける影響は全くゼロではないでしょう。それを感じていなくても、何らかの影響を受けています。同じ時代、環境に生きている者として・・。「赤く」はならなくても、影響しあっているのは確かなことであるといえます。

生活している現場で、このことを一番身にしみて感じるのは、職場で、自分の上司がどんな人であるのか、ということではないでしょうか。その人が上司の役職を引き受けているということは、彼の下で働く人々へ「奉仕する」という感覚がその人にない限り、威張っているだけの上司になりはしませんか。少なくとも陥りやすい点です。これでは困りますよね。だからと言って面と向かって、「あなたのやっていることには、どうしても賛成しかねます」と意見を言うことはなかなかできませんものね。言える人はいいですが、・・。そのような上司のようにならないためにはどうしたらよいのか・・。

権威の本来の目的は「奉仕すること」だが

なんといっても、権威は本来、その目的は「奉仕すること」にあります。普通だと、役職の任にある人は黙っていても大事にされます。それは、みなに対して奉仕してくれているからです。それって、ありがたいことです。だからこそ尊敬の的になります。ところが、尊敬されていることをいいことに自惚れ、胡坐をかいていると、ファリサイ派と律法学士と同じような人間に成り下がります。

先週の福音では、ファリサイ派の人々はローマ皇帝への納税問題をイエスに突きつけ、イエスをどうにかして陥れようとしました。が、逆に批判を受ける羽目になってしまいました。今日の福音でもまた、ファリサイ派の中の律法に詳しい専門家を送って、再度、イエスを試そうと掟について迫ります。

イエスは知識を盾に質問する律法学者に対し

ファリサイ派は律法に関しては、「書かれた律法」のほかに「口で伝えられた律法」をも尊重し、それらすべてを文字通りに守ることを誇りとしていました。そこで、今日の福音では、彼らはまた、イエスを罠にかけようとしています。つまり、イエスに一つの掟を挙げさせて、それによってイエスは掟を尊重する努力を怠っているという事実を見つけて、そのことを批判しようとしていたのでした。

これに対してイエスは二つの掟を挙げて答えます。「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と。

文字と形式だらけの律法を超える”愛”を提示

ここでもイエスは、尋ねられてもいない内容の言葉を付け加えておられます。それは「預言者」という言葉です。律法学士の問いは、「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」というものでした。そして、その答えの最後に「律法全体と預言者」を付け加えています。「預言者」という言葉によって、イエスが示そうとされたのは、預言書だけではなく、イスラエルの歴史を書いた書物全体を含めていたのです。このことが示していることは、神の言葉は歴史から切り離されてしまうと、それは単なる抽象的な文言に終わってしまって、人を動かし、生かす力にはなりえないのです、ということです。

なぜならば、神は歴史の中でご自分の意思と愛を人間に表し、救いを実現なさるからです。ファリサイ派の人々が民衆に施していた教えが、掟が負いきれない重荷となっていたのは、歴史に現実となった神の業から目をそらし、文字としての律法にこだわったからでしょう。

神に対する愛と隣人に対する愛は一つのもの

そして、イエスは神に対する愛と隣人に対する愛は一つのものであり、旧約聖書全体がここに「基づいている」ことを明らかにしたのです。したがって、二つの掟というより、その実、一つの掟だったのです。「愛しなさい」という掟です。要するに、神が民の歴史の中でなさってくれたことを思い起こせば、神を愛さなければいけなくなるでしょう。でないと、イスラエルは存在しなかったのです。別の言い方をすれば、神に恩義があります。だから、神を大切にしましょう、と、イエスは今日呼びかけます。

「わたし」は神とのかかわりを求めているでしょうか。神の愛への感謝の心があれば、その行動としての表れが隣人愛なのです。だから、「愛しなさい」という掟は、救いへのお招きの言葉なのです。それがまた、次のより発展したかかわりへの動機となります。

日頃、神を感じること、時がありますか。もっと影響され、感化されて(委託)みましょう。

 

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