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年間第30主日:イスラエルでは、神を愛することがなぜ掟だったのか

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年間第30主日(A年)の説教=マタイ22.34~40

2014年10月26日

message-eycatch幼稚園の通常保育の放課後、子どもたち6人がジャングルジムに腰掛けて、なにやら話し込んでいました。そばによって見ると、何にんかの子どもはわたしに気付きましたが、全く無視。話に夢中です。そば耳立てて聞いていますと、どうやら、年少組から年長組までの女の子だけの6人で、何かの「ごっこ」をしようという話です。

年長のN子ちゃんが仕切っています。それぞれにやりたい役を言い合っていました。わたしが気付かないうちに配役が決まったようで、「じゃぁ、お姉さんがO子ちゃんを呼んでくるね」といって、N子ちゃんがどこかに消えていきました。何が起こるのか、としばらく見ていましたが、それで終わりでした。彼らの意識にはないかもしれませんが、一人ひとりの役を話し合っている時の彼らには他人を、友をおもんばかる姿を感じました。

こうした小さな体験を積み重ねて行って、一人ひとりを大事にする術を会得していくのでしょう。そして、そこに一人ひとりの個性も育っていくのだと思います。このように、「人となり」の育ちに関しては、外的な制約を受けることなく、体験の中身に即して育ち、強いて言うなら、ルールはその人の中にあるのです。

今日の福音には、ちょっと違うのではないかと言いたくなる話が紹介されています。愛は「おきて」であるというのです。やさしい心、愛おしい心は強いられて芽生えるものではないでしょう。その人の心の深奥からわき上がってくる自発的なものでしょう。その人が、その人生の中で培ってきた、それこそ「人となり」です。

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「律法の中でどのおきてが一番たいせつですか」という問いに、イエスさまは答えます。「心をつくし魂をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい」と。その背景には、「出エジプト事件」があったのです。「主は、われわれが見ている前で、エジプトに対して大きな恐ろしいしるしと、不思議を行い、我々をそこから導きだされた」(申命記6章22節)のです。

神に選ばれ、保護され、導きだされ、約束の地まで与えられたのです。イスラエルの人びとにとって、その生活のすべては神からの恵みによるものなのです。彼らはこのことをよく知っていました。それを語り継いできたのです。その事実をしっかりと見続けるならば、神を大切にしなければいけないという結論に達します。

日本的な言い方をしますと、神さまは、イスラエル人の「恩人」でした。いわゆる、神に「義理」があるのです。その限り、どんな方よりも、優先しなければならない存在者なのです。それを個人としてだけでなく、民として愛し続けることの大切さをかたり続けるために、神を愛することがおきてとされているのです。

わたしたちの日常はどうでしょうか。神のありがたさは分かっていても、表面的、ご都合主義です。「愛すること」は強制されることではない、と批判しながら、前に進もうとしない自分を感じてしまいます。

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