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年間第32主日:真の権威は、各々の日々の生き方の中で培われていく

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「神への道標」

2018年説教の年間テーマ「神への道標」

年間第32主日(B年)の聖書=マルコ12・38~44

2018年11月11日

人は違っていてこそ、他者を認め必要とする

世の中に似た者同士ということはあっても、まったく同じ人はないでしょう。それぞれが違った能力を持ち、違った役職に召され、違った表現をして助け合い、お互いの力となって生きています。この「違い」を押し進めて追及していきますと、自己の限界を知るとともに、ますます他者の存在の大きさにたどりつきます。つまり、人は必ず人を必要としているし、そうでなければ、人としての品位を保ちながら生活ができないのです。大げさな言い方になりましたが、わたしたちは他者のために生きてこそ、その違いからくる自分の能力を遺憾無く発揮できるということです。

ところで、「おふくろの味」なる言葉があります。というよりも、「あった」という時代になったのでしょうか。「おふくろの味」そのものの食べ物も、無くなってしまったのかなと思わせる新聞記事に出会いました。

大阪の小学校で週3回「朝ごはんや」が出現

「朝食学校でいただきます」「各地で提供 住民や企業が協力」「児童の遅刻減少 集中力アップ」なる見出しが気になりました。(讀賣新聞大阪本社、2018年11月5日夕刊) 一日の始まりに朝食をしっかりとって生活リズムを整えさせようと、小中学校で子どもたちに朝ご飯を提供する活動が広がっています。

大阪市東淀川区の市立西淡路小学校で毎週月、水、金曜日の朝、家庭科室に「朝ごはんやさん」が開店します。10月のある日、午前7時を過ぎると子どもたちが、それぞれに食事をして教室へ移動します。この日は30人が利用。5年生の女子児童(11歳)は「温かくておいしい。いつも楽しみ」と顔をほころばせています。

とても心温まる出来事だなと思います。「子育ち」の大事な時期に、日常生活における家族の交わり、親子の学び合いなど、人としての基本的な「人となり」はどのように育っていくのでしょうか、という不安を覚えなくもありませんが。日々の生き方の中で、構えない、ごく普段の生きざまが一番の育ちのエネルギーになって育っていくと思うからです。

実践での交わりで次代に引き継がれていく

こうした地域、保護者のみなさま方のボランティア活動奉仕を体験したり、並びに、人生の先輩である親、兄、姉、身近な諸先輩方の生きる様を見て、知恵を育み、自分自身の「らしさ」を発見し、自らに適した環境づくりを目指し、他者との交わりを通してより豊かな自分を目指していくことができます。そして、後世に「人生の財産」を引き渡していくことができるようになります。一人ひとりが生きてきた証であり、それがあるからこそ、親、諸先輩方は、子どもに、若い人々に向かうことができます。言葉にしなくても、その人の生きてきた現実が、子どもに、若い人たちの命に息づいていくのです。それが、先輩の、親の「権威」として自ずと伝わり、引き継がれていきます。

言葉はその裏付けとなる今の生き様が大事

ことばとして発する時、その裏付けになる「今の生き様」が大事です。それが、「権威」と呼ばれるものになっていくからです。今日のイエスさまは、このことを指摘されます。指導者階級への厳重な注意です。内容のない権威への忠告です。

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律法学者は律法を研究する専門家です。したがって、彼等の発言には力があり、人々からも尊敬の的になっていました。まさに権威ある存在だったのです。ところが、イエスさまにしてみますと、内容のない権威にごまかされないようにしなさいとの警告を、発せずにはおれなかったようです。律法学者やファリザイ派の権威には、生きた裏付けがないとおっしゃるのです。いわゆる、「偽りの権威」だといわれるのです。彼らの外見は立派で、完全なものです。ところが、心は神に向かっていないと。神に向かうよりも、自分自身の名声や社会的な地位の確保に向けられているのです。

神ではなく自分自身に向かう心に要注意

いつも「自分」が前面に出ることが大事にされています。それに比べ、貧しいやもめは、見た目もみすぼらしいし、人の目を引くほど魅力的でもありません。しかし、その彼女の献金の行いをおほめになります。自分の生きている姿そのものを捧げたからです。乏しい額であっても、自分のすべてを捧げたからです、と。日常の生き方を通して、こうした感覚を大事にしていたのではないでしょうか。即座にこのような心意気になるわけもありません。日頃の積み重ねが開花するのです。神への信頼心、それが「安心感」へと変えられていくのではないでしょうか。わたしたちにとって究極の願いですし、そこに向かっての日々です。

献金の度に新たな動機付けを習慣化したい

「今日は張り切ってたくさんの献金をした」と、わたしたちは、正月とか大祝日並びに何かの記念日には、普段よりも多めのミサ献金をすることがあるのではないでしょうか。いいことですが、何も自慢することでもないでしょう、とイエスさまはおっしゃりたいのでしょうか。少なくとも、献金の度に、新たな動機づけをもって捧げたいですね。自分にとって、より有意義なミサ、祈りとなっていくのでは、・・。

人として、信仰者として、社会のさまざまな出来事との遭遇、いろいろな人との出会いによって、知恵を会得し、高められ、深められていきます。そのような事象、人々に関心をもち、より敏感になっていきたいものです。

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