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年間第33主日:神の愛への信仰が苦しみを耐え抜かせてくれる

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年間第33主日(C年)の説教=ルカ21.5~19

2010年11月14日

神のまなざし

「いくら祈っても、生活は楽にならない」といって、信仰することをやめてしまう方がいらっしゃいます。「カトリックの信者は信じているといっても、何のしるしも求めないんですか」といって、ひたすらしるしの現れを祈る方もいらっしゃいます。

いずれにせよ、信仰はわたしたちが住んでいるこの世と無関係ではありませんので、生活現場から出てくる祈りが本物であることは確かです。「わたし」の一人つぶやきから祈りは始まります。そうです、今の現実を語ることから神との対話が始まるのです。その社会の現実、歴史の現実から、たとえ、キリスト者であっても逃れることはできないのです。

今日のイエスさまのことばは、今でも紛争が絶えない中近東の世界の、当時の現実を語っています。諸民族間の対立、迫害と殺戮など、その世界の日々の現実です。一言で言えば、「複雑な世界」です。したがって、平和な、安心できる生活は長続きしないのです。いつそれが奪われ、破壊され、踏みにじられるかわかりません。そのような状態にあったイエスさま時代の中近東の世界で語られたものが、今日の福音の語りです。

年間第33主日:わたしの名のために憎まれるが、忍耐によって命をかち取りなさい。
年間第33主日(C年)の福音=ルカ21・5~19 〔そのとき、〕ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。あなたがたはこれら>の物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」

現実からの脱却を願って「入信」する人であれば、「信じること」についての甘い考えといえるでしょうか。「信仰すること」は現実逃避の手段ではありません。信仰すれば、家内安全、商売繁盛が保証されるということはないのです。

イエスさま自身がそうでした。神であるにもかかわらず、歴史の現実に入り、その荒波にもまれながらその使命を果たされたのです。しかも、この世の権力者にぼろぼろにされ、この世から葬られてしまいました。わたしたちのすべてのモデルはイエスさまにあります。信仰のゆえに迫害され、苦しめられ、場合によっては、イエスさまと同じように、命さえ奪われることだってありうるのです。かつては日本でもそうでした。日本26聖人はあまりにも有名です。最近では188福者があります。鹿児島にゆかりのあるレオ税所七右衛門もその中の一人です。鹿児島の川内で殉教しています。来る11月17日は殉教の日です。

しかし、弱いわたしたちは、恐れと不安にゆさぶられます。そのことを十分にご存知であったイエスさまは、励ましと力をくださいます。「あなたがたの頭から髪の毛一本失われることはない」と。神の愛と力によって守られているという信仰が、苦しみを耐え抜かせてくれるのです。

肉体的な殉教という現実は、今ではないでしょうが、精神的には今でも絶えず繰り返されているのではないでしょうか。冒頭の「祈り」こそ、このことを物語っています。「どうぞ、主よ、わたしたちの信仰を増してください!」

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