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年間第15主日:父なる神に声をかけられている。同じようにしなさい

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2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」

年間第15主日(C年)の聖書=ルカ10・25~37

2019年7月14日

「子育てに『もう遅い』はありません」から

どこの国でも、ひょっとしたらいつの時代においても、自分の子どもが、将来成功して幸せになるのを望まない親御さんはいないのではないでしょうか。子どもにとってプラスになる教育を受けさせたいと考えるのも、親として当然といえます。したがって、幼稚園に入る前にABCがスラスラ言えたり、ひらがなを全部読めるような「頭のいい」子どもになることを期待して、親御さんはがんばります。

しかし、「ひらがなが読める、数字がわかる、英単語が言えるなど、大人は、ついわかりやすい成果に目を奪われがちですが、他の子より少しだけ早く暗記できるようになっても意味はありません。そのような機械的な詰込み学習をすると、子どもが文字や数字への興味を失ったり、嫌いになるケースもあります」と指摘するのは、内田伸子さん(「子育てに『もう遅い』はありません」2008年参照)です。

「目に見える力」と「目に見えない力」が働く

続けて言われます。「子どもの成長には『目に見える力』と『目に見えない力』があります。何かができるようになるのは目に見える力の成長ですが、その裏側では目に見えない力が栄養になっています。・・・目に見えない力は、幼児教育や学校では教えてもらえません」と。世界的に有名な数学者の広中平祐さんの話を挙げています。「考えることの楽しさや、物事をとことんまで追求する姿勢は、お母さんの姿から学んだとご自分の本の中で書いておられます。このようなお母さんの姿勢こそ、真の『幼児教育』ではないでしょうか」と。

「目に見えない力」こそが欠かせないもの

その「見えない力」こそが、学習するためにも、自律的に生きていくうえで欠かせない大きな力なのです。そして、生きていく「感性」が豊かになっていきます。すなわち、生き方を学んでいるんですね。家庭内の交わりに始まり、幼稚園、学校、職場、地域社会へと、その生活現場が広がっていくにつれて、それに見合う生きる感性が育ち、ますます「人となり」が豊かになっていくのです。わたしたち一人ひとりは、他者の中(共同体)にあってこそ、自分の存在価値を知り、自己評価することができるのではないでしょうか。こうして育ってきた「見えない力」が、親が前もって与えようとした「見える力」を、いつの日にか超えてしまうのです。しかし、生きている世界が、行動範囲が限られていればいるほどに、その人の「感性」もそれだけのもので終わってしまいます。

神を「知っている」だけでは意味がない!

きょうの福音書の話は、神をよく知っている、その教えを知っていると思いあがっている人々に対して、強烈な打撃を与える内容です。その人々とは、神の世界に関しては専門家である3人の方です。一人は律法学士で、神の掟の権威です。他の二人は、神殿で奉仕することを使命としている祭司とレビ人です。この二人も神の戒めに関しては、よくわかっていたはずです。しかし、イエスの目からしますと、三人ともその役職にふさわしい人たちとはなりえなかったのです。

年間第15主日:自分のように愛すべき、わたしの隣人とはだれですか?
年間第15主日(C年)の聖書=ルカ10・25~37 〔そのとき、〕ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

その人の生きている世界が限られていて、しかも権威が付与されますと、よくよく注意しないと、よからぬ生き方へと走っていきます。特に、人間の「欲」が絡んできますと、手に負えなくなります。現実の日々のできごとがこのことを証してくれています。つまり、知っているだけでは意味ないでしょう、ということです。また、口では「神よ」と叫び続けても、「わたしはお前たちを全く知らない」(マタイ7章23節)といわれるだけです。「父のみ旨を行う者だけが入る」(21節)とイエスは言われます。

「父のみ旨を行う」とはどのようなことか

この「父のみ旨を行う」とはどのようなことでしょうか。今日の「善いサマリア人」のたとえ話は、このことを伝えようとしています。そのために、イエスは、敢えて誰もが認める人ではなく、まったく別のタイプの人を登場させます。それがサマリア人です。種族としては、イスラエル人と、アッシリアから移住してきた異邦人との混血種族です。彼らは偶像礼拝をおこない、異邦の世界に染まっている種族として、ユダヤ人からは忌み嫌われていました。したがって、異端者としてみなされ、軽蔑されていたのです。そのサマリア人が、たとえ話の主人公なのです。イエスの精一杯の皮肉と、ユダヤ人への批判が込められているようです。

イエスは指摘します。ユダヤ人が失っているものを、サマリア人が保有しているのです。それが、「やさしい心」です。目には見えないその人の「人となり」です。イエスの言葉によると「その人を見ると憐れに思い」、そして、サマリア人は行動を起こします。この「憐れに思い」という言葉によって、サマリア人の心が表現されています。つまり、見て見ぬ振りができないサマリア人の心です。相手がだれであれ、サマリア人にとって、その人のお世話をするのに妨げにはなりません。ここに「愛」があります。

見て見ぬ振りができない愛の積み重ねを

このサマリア人の心、行動は、いきなり身についたものとは思えません。おそらく、小さい頃から培われてきた「見えない力」の現われだったのではないでしょうか。その力が、大事な時に、さらに大きな実りをもたらしてくれます。こうして、一人ひとりに託された「父のみ旨」が果たされていきます。普段に生きていくこと、この積み重ねの過程で、神のみ旨は実現されていきます。一人ひとりの「見えない力」もまた、その都度、新たに強められ、高められていくのです。誰もが呼ばれ、声かけられているのです。

そして、イエスは結びます。「では、行って、あなたも同じようにしなさい」と。

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