竹山昭神父

カトリックの教え

祈りを中心に抱く「山上の説教」第5講—竹山昭神父の2018年夏期講座

主の祈りが山上の説教全体に占める位置を、 U.ルツの詳細な注解書「マタイによる福音書」の見解を援用して、確かめたい。また「主の祈り」を導入しているイエスのことばの意味を考えてみたい。
カトリックの教え

祈りを中心に抱く「山上の説教」第3講—竹山昭神父の2018年夏期講座

本論は3つの部分からなる。冒頭にイエスと律法についての総括的原則(マタイ5:17-20) 主題:「言っておくが、あなた方の義が律法学者やファリサイ派の人々の義に勝っていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることは出来ない」(20節)
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祈りを中心に抱く「山上の説教」第4講—竹山昭神父の2018年夏期講座

先の対立命題が律法学者を念頭においていたのに対し、ここでは人々の偽善ぶり、恐らく文脈から考えてファリサイ派の人々の振る舞い、ユダヤ人にとって慣れ親しんだ敬神のわざである施し、祈り、断食が取り上げられる。
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祈りを中心に抱く「山上の説教」第2講—竹山昭神父の2018年夏期講座

①マタイの聴衆(マタイ5:1)とルカにおける聴衆の違い(ルカ6:20) ②「八つの幸いの」全体の構成と表現の特徴⇒現在のマタイ版はマタイによるまとめ(創作とは違う)。この表現から、八つの幸いは、いわば将来の約束、希望を語っている。 ③八つの幸いの大意---「霊において貧しい人は幸い」が八つの幸いの根底に共通。
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祈りを中心に抱く「山上の説教」第1講—竹山昭神父の2018年夏期講座

「山上の説教」(マタイ5~7)の基本的性格①山上の説教の説教は新たな律法か ②ディダケ―としての山上の説教 ③要理教育としての山上の説教 ④要理教育ないし新受洗者の指導という基本的性格から生じる一つの結論
カトリックの教え

私たちは「信仰宣言」で何を表明するのか—竹山昭神父の2017年夏期集中講座②

信仰宣言のカテケーシス(2)(3)は「 父のひとり子、わたしたちの主 イエス・キリストを信じます。」の中身について
カトリックの教え

私たちは「信仰宣言」で何を表明するのか—竹山昭神父の2017年夏期集中講座①

8月21日に行われた【2017年第1講】は「信仰宣言」のカテケーシス(1)「天地の創造主、全能の、神である父を信じる」
カトリックの教え

主の祈りは世界を巡る~祈りをめぐって~竹山昭神父の2016年夏期集中講座⑤

アウグスチヌスは「祈りは神さまとの対話」と言ったそうですが、竹山神父さんによると、祈りは『神さまの前に自分の魂を注ぎだす行為であり(サムエル記上1参照)、同時に神さまの語り掛けを聞くことである』とのこと。
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イエスの思いの場に戻る~ミサをめぐって~竹山昭神父の2016年夏期集中講座④

①ベタニアでの出来事(マルコ14.1~11)②晩餐に臨むイエスの思い③食事の席で④これはあなたがたのためにわたされるわたしのからだ---多くの人のために流されるわたしの血---新しい契約⑤ペトロの裏切り⑥イエスの思いの場に戻る
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すべてを語る責任~あかしをめぐって~竹山昭神父の2016年夏期集中講座③

福音宣教とは、イエスの訪れの事実と意味を告げること。あかしするとは、自分の身に起こった出来事をどのような観点で見て、語るか。教会や共同体には出来事の全貌を語る役割が求められる。
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光の中にイエスの顔があるから—竹山昭神父の2016年夏期集中講座①

2016年8月22日に行われた第1講は、わたしはどこからきて、どこへゆくのか?がテーマ。約70分の講話を無編集動画と配布資料を抜粋したテキストで構成して掲載しました。
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光の中にイエスの顔がある~信仰をめぐって~竹山昭神父の2016年夏期集中講座②

「信頼する」と「信用する」は全く違うものである。主に経済活動で使われる「信用する」行為には、実は裏付け・担保が存在する。このことは銀行が個人や会社を信用する場合を考えれば明らかである。一方、信頼には保証はなく、ある種の冒険をはらんでいる。人が信頼する相手が神である場合は、これを信仰と言う。
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病者の塗油の秘跡、結婚の秘跡、叙階の秘跡

第24回夏季集中講座・第4日の昨日は、7つの秘跡の個別解説最終日。内容は、病者の塗油、結婚、叙階についてだった。 初日は、7つの秘跡の概要とその共通する特徴など。2日目は洗礼、堅信、ゆるしの3秘跡だったが、所用で欠席。3日目は、カトリック...