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年間第17主日:得るために支払う準備と努力に、喜びを感じていますか?

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年間第17主日(A年)の説教=マタイ13.44~52

2014年7月27日

message-eycatch1954年ごろの話で、かなり古くなりますが、わたしは長崎市の南山手地区に生活していました。国宝大浦天主堂のある地区です。当時の大浦天主堂は、拝観料はタダでした。今はおいくらなんですかね。そして、あの頃の観光客の数も、今の何倍もいたと感じております。

ご存知のように、天主堂は一般道から70段近い階段を上らなくては入堂できません。この長い階段を利用してアルバイト(?)をしたことがあります。その内容は何かといいますと、カトリック教会の教え等を書いたパンフレットを、観光客に配るだけのことです。当時、大浦天主堂の司祭の家に滞在していた二人の外国人の宣教師に頼まれての作業でした。ある日、手伝ってくれてありがとう、と言われ当時のお金で50円いただきました。

以前から、ジャムパンを食べたくてしかたなかったわたしですが、いい機会が来たのです。ジャムパン一個が10円でした。わたしが、5個のまとめ買いをしたものですから、大変です。店の方がびっくりしていました。いつもお金とは縁のないわたしが、50円という「大金」をもっていたからです。その時のお金は正当なお金で、その日だけの、唯一のお小遣いでした。子どもですから、そんなことなにも考えることなく「欲しいもの」を食べきったのです。満足でした。

いつの時代も同じでしょうが、人は欲しいものが目の前にあると、どんなにしても手にいれたくなる衝動にかられます。その思いが高じると「泥棒」してしまうことだってあり得るのです。よくないこととは分かっていても、・・・。

「物」に対しては強い執念を燃やしていくわたしたちですが、神に対してどうかと問われると、・・・しゅんとなってしまいます。神との出会いに、期待と喜びと、渇きを覚えないのでしょうか。恋人には会いたくなるのに。神は恋人になりにくい、・・・?

こう考えるのは神さまに対してご無礼でしょうか。

しかし、「物」を仕入れるということは、当然ながら、それに見合うだけの「支払い」をするということです。その「支払い」の中に込められているのは、その人のそれまでの努力の結晶です。どんな努力を「支払って」も苦にならないほど価値ある「物」なのです。

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今日の福音で、イエスさまは得た「物」に比重を置いているのではなく、「支払いをする」ために努力してきたその生きざまに、重きを置いているのではないでしょうか。隠されているものが何なのかはわかりません。また、魚もどんなものがどれだけ取れるのかわかりません。得るために「支払われる」準備と努力に、日々、喜びを感じていますか、と言われます。

ボランティアは、「支払う」喜びを感じ、表現する最たる活動でしょうか?!

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