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年間第16主日:神は「憐れみと愛にあふれた」活動を評価される

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年間第16主日(C年)の説教=ルカ10.38~42

2013年7月21日   

寄り添うイエス何の理由も無く、いきなり「君はなんて無駄なことしているの」といわれますと、正直言って、ムカッときてしまいます。自分がされるとそうなんですが、同じようなことを、自分が他者にしている可能性は十分にあります。

「されたこと」は覚えていますが、「したこと」は記憶から消し去られていきます。大体心当たりのある方が多いのではないかと思いますが、・・・。

なぜこうなんでしょうかね。「必要なことはただひとつ」とわかってはいても、たくさんのことに好奇心が働き、追い求めているからでしょうか。経験からして、やることが目の前にたくさんあればあるほど、慌てふためいたところで、仕事ははかどりません。ますます重くのしかかってきます。

やるべきことの優先順位を決めることです。不思議なことに、集中力も伴いアッという間に解決しています。

マルタは焦りました。愚痴の一つや二つも言いたくなってきます。なんといってもとても大事なお客を迎えたからです。そのもてなしのことで気を配り、心を配り、せわしく体を動かして働き回ります。現代に生きるわたしたちも同じことを考えますし、マルタの気持ちに同情される方も多いのではないでしょうか。

中世期には修道会の生活のあり方として観想生活、半観想生活、活動生活という区別が生まれたといわれています。中でも観想生活は召しだしの最高峰とされてきました。一方で、活動生活はそれよりも下の生活として見られてきたのです。所謂、修道生活のランク付けです。この見方の根拠(?)とされてきたのが、今日の福音の場面です。

しかし、教会にはこうした見方はどこにもありません。イエスさまは、修道生活のあり方を指摘なさったのではないでしょう。「必要なことはただ一つ」ということを指摘なさっています。それとは、・・・?

わたしたち人間は、どんなに汚れきった存在であっても、憐れみにあふれた心を持ち合わせています。神がお取り上げになる評価ある活動は「憐れみと愛にあふれた」活動なのです。

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マルタがイエスさまに指摘されたのはその部分ではないでしょうか。つまり、マリアのその時の心境を思えば、そっと彼女のとった行動を、受けとめてあげるべきではないのですか、ということです。だからといって、接待する行動が卑しいことであるとはおっしゃっていません。

身勝手は、人を豊かにしませんね。いたわりの心を一人ひとりが持てれば、この世はもっともっと楽しい場になります。救いへの道はここにあります。

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