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2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

カトリック典礼暦・2026年(2025年11月~2026年11月)は、主にマタイ福音書が朗読されるC年。

聖書によれば、人は皆、罪深い存在です。
人間は誰も、罪を完全に避けることはできないし、罪が引き起こす不幸な結果から免れることもできません。罪は、わたしたちを神様とその神聖さから引き離してしまいます。罪のもたらす最悪の結果は死であり、神様との永遠の別離です。
人間は神様の御前で自分の罪やその不幸な結果を自分の力では帳消しにできません。
私たちを救うことができるのは、イエス・キリストだけです。

このような存在のわたしたちですが、それでも、神はわたしたち一人ひとりの傍に近寄っては語り掛け、「わたし」の生きるべき道をそっと示してくださいます。罪人であるがゆえに、神はわたしたちをさがしておられるのです。
罪人を「取り戻すために」です。

2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第21主日:強さと弱さのいり混じった今の「わたし」の上に信仰がある

わたしたちは、イエスを見たことも話したこともありません。なのに、「信じている」のです。それは、イエスの正体が見えては消え、消えては見えることを繰り返しながら培われてきたもの。こうした強さと弱さのいり混じった今の「わたし」の上に信仰があり、そして、それは神の恵みに支えられているのです。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第20主日:イエス時代の律法主義と現代の制度中心主義は似てる?

規則は社会においては大事です。でも、その中で生きているのは、あくまでも「人」です。何もかも一緒くたにして、「人」を追い込み、締め上げてしまうのもどうでしょうか。! 他者を「わたし」自身の内側にある「法律」で裁いていないでしょうか?
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第19主日:わたしが助けを求めて叫べば、イエスはいつもそこに…

ペトロは、「イエスのもとへ行きたい」と考える一方で、「強い風に気づいて怖くなる」という別の思いを持ちました。こうした現象は、わたしたちの日常でもよくある体験ではないでしょうか。その時、わたしたちはどちらの状態を選択しているでしょう。言葉が持つ二重性、その豊かさをしっかりと捉えたいものです。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第18主日:イエスに繋がらなければ、わたしたちは無力です

弟子たちは、イエス亡き後、教会の指導者となる人々です。でも、イエスなしでは何もできない無力なのです。彼らが「教会の指導」として意味をもつのは、彼らがいつもイエスを見つめ、イエスの心と一つになるときです。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第17主日:時代とともにキリストのメッセージを伝える努力と工夫を

時代の流れとともに、キリストのメッセージを伝える努力と工夫が、一層、求められているように思います。努力と工夫の中で、宝であり、真珠であるキリストを伝えるとき、この世にもさらなる喜び、平和があふれることでしょう。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第16主日:イエスは、今もなお、「わたし」に向けて語り続けます

こういう言い方はふさわしくないかもしれないですが、宣教することは、いわば、「煽る」ことではないかと。「人の感情(心)や行動を促す」という意味で、一人ひとりをイエスの方へと押しやっていくのです。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第15主日:自分の力、居場所に気づきましょう。宣教はそこから

今日のたとえ話は、福音の言葉(種)が、いかに豊かで強い生命力を持っていても、それを受け取る人(土地)の心の状態があまりにも貧しいと、その種(み言葉)はその人の中では生かされていかないということを示しています。わたしたちは神から選ばれ、実は、それぞれに「適材適所」に置かれているのではないでしょうか。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第14主日:わたしたち一人ひとりの重荷、労苦を一緒に背負ってくれるイエス

きょうのイエスは「 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」と呼びかけられます。わたしたちと異なって、イエスはわたしたち一人ひとりを相手に、まことに愛する心があるということです。その上、わたしたち一人ひとりの重荷、労苦等を解決してくれる力もお持ちだといういことです。
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年間第13主日:イエスの教えは、常識を超えたところに生きる

「わたしらしさ」が「イエス・キリストらしさ」に近づくこと、これがわたしたち信仰者の道しるべであるといえないでしょうか。それが常識外れと言われても・・・否、実は常識を超えているのです。「イエスらしく」なっていくことは、すべての人に対して通用する人になることでもあります。
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年間第12主日:今の時代に、キリスト者に「求められるもの」は何?

今日の福音で気づかされたのは、わたしたちが「信仰者」として生き、信者共同体の中で生活していながら、キリスト者らしくなっているでしょうか、と自問自答させられたということです。キリスト者として今の時代に「求められるもの」をしっかりと見極め、確認できているでしょうか。
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年間第11主日:イエスの目はどこを、何を見ているのでしょうか

今の時代、現代ならではの苦しみ、貧しさ、疲れ果てた姿の原因はさまざまでしょうが、イエスの時代においても、同じような環境に晒された人々はいました。イエスの目は、表だけの観察ではなく、表は普段と変わらぬように見えても、その奥に潜む人間の悲しい姿を見つめていたのではないでしょうか。
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キリストの聖体:わたしたちは大勢でも一つ、皆が一つのパンを分けて食べる

人が育つための「肥し」になっているのは食べ物であり、飲み物であり、励ましの言葉であったり、他者からの援助の働き・手助けであったりします。敢えて言うまでもないことですが、わたしたちの育ちには、心の育ち、体の育ちがあります。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

三位一体:信じて近づこう!わたしたちの思いと能力をはるかに超えた神の心

三位一体とは神の方からわたしたちに近づき示され、明らかになった真理。そこは人間の「欲」が行きかう隙間もないほどに神の愛で満たされているのです。神の心を受け止め信じる歩みを続けましょう。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

聖霊降臨:「主を見て喜ぶ共同体」に発展することを、いつも目指しましょう

イエスは罪を償ういけにえとして遣わされ、十字架の上で命をささげることによって、人々の罪の赦しが現実となりました。わたしたちの新たな使命は、罪をゆるされた仲間を増やし、共に集まり、その真ん中にイエスがおられる集いを作り続けることでしょう。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

主の昇天:イエスはどこまでも「アナログ」、わたしたちと「共にいる」師です

イエスは「対面教話」しかも、自ら人々に近づいて励まし、癒し、元気づけました。デジタル時代に生きる私たちも直接的な交わりや寄り添いの大切さを忘れてはなりません。イエスは今もわたしたちと共におられる「アナログ」の師です。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

復活節第6主日:「わたし」の「キリスト気質」に目覚める

色々な催事に接するとそれぞれの地域や国の「気質」を感じます。わたしたち信仰者には「信仰者気質」なるものが備わっているはずですが、意識しておられますか?では、「キリスト気質」とは・・・
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復活節第5主日:試練を経て、一歩前へ、人間の常識を超えた信仰へ

イエスの生涯は、外見では敗北感を匂わせていますが、人間的な常識を超えたイエスの神秘に信仰を求めていきたいものです。つまり、真の信仰は人間の力によるのではなく、神の恵みであり、聖霊の働きによるものであることを・・・
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復活節第4主日:聞き覚えのある声の方に向かって、歩みを進めよう

弱いわたしたちにとって、安心できる場、安全な場所は、大きく成長するために大事な必要な環境となります。このような環境は、人としての成長においても、信仰の成長においても求められることではないでしょうか。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

復活節第3主日:生きているイエスに出会う「場所」は、普段の生活の現場

「信じる」ということにとって、見たかどうかは大事なことではありません。見ても信じないことはあります。むしろ、「聞く」ことが大切なのです。何を聞くのかといえば神の言葉であり、宣教の言葉です。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

復活節第2主日:イエスが復活したからこそ揺らぐことのない希望と平安が

イエスが復活したからこそ、今のわたしたちは、日々、確かな、揺らぐことのない希望と心の平安をいただくことができるのです。仮に、地上の現実の前に打ちのめされることがあったとしても、イエスを仰ぎ見ましょう。
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