
【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される:
復活節第4主日(A年)の説教=ヨハネ10・1~10
2026年4月26日
最近の日本国では、「世界一安全な国・日本」の姿が揺らいできているのではないかと思わせる事件・事故が相次いでいます。しかもそれが、小さな子どもたちにまで及んできているのです。その生命にかかわる事件、事故等、さらには、生活現場において、その安全が脅かされてきています。特に、子ども、中でも幼児期においては、日々の生活が安全で、安心できる環境がぜひとも要求される時期であるのです。それは、周りにいる大人が安全であり、その上に、安心できる環境にあることが、その子の成長のためにどうしても要求される重要事項であるといえますし、みなさんもそうだとは思われませんか。
先日の報道でも小学校の教諭による「女児盗撮」の出来事が起きています。それによりますと、勤務教室にて女児の盗撮、スカート内を盗撮したということです。
この情報については、匿名の方から学校側に寄せられ、同校が若松容疑者に確認したことにより明らかになったという次第です。(讀賣新聞西部版2026年4月21日朝刊)
子どもたちにとって学校は、家庭に次いで安全で、安心できる場所ではないでしょうか。それが学校当局内部から崩れていくとはどういうことでしょうか。「教育」は、「成長」は安全で安心できる環境がなくては、まともな成長発展はあり得ないのではないかと思っています。
「黙っていても子どもは育つ」とはよく言われますが、これは自由奔放に任せておけばよいということではないでしょう。子どもの育ちには「沈黙の時間」が大事であるということです。沈黙の中で子どもは何をしているのかといえば、「どうしようかな」と自分の中で試行錯誤している、「これは失敗かも」と気づき、やり直そうとしている、「あっ!」とひらめく瞬間を待っている、とにかく、子ども自身の中に横たわっている能力が、あらゆる外部からの刺激を受けながらその芽を出してくる時なのです。そのためにも、その環境が安心安全であることです。

今日の福音書で、イエスは「門」と「羊飼い」にたとえられます。
「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」(ヨハネ10・1~5)と。
「門」のたとえでは「門を通る者」と「門を通らない者」が対比されています。「門」がこの二つを見分けるしるしとなります。「羊飼い」は門から入ります。門以外のほかのところから羊に近づく「盗人や強盗」は、奇跡を目の当たりにしても、その証しを認めようともしなかったファリサイ派のような人々であることが明らかにされます。(6節)
「羊飼い」の話では、羊と羊飼いの親密さが強調されています。この話の前に、生まれつきの盲人が癒されました。彼は、ユダヤ人たちの忠告に耳を貸さずに「あの方は神のもとから来られた」(ヨハネ9章33節)と告白しました。この人はイエスの声を知る「羊」を表すよいたとえでしょう。
このたとえによって、イエスはご自分の役割をほのめかしています。でも、ファリサイ派の人々は理解することができません。そこでイエスは自ら宣言されます。
「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」(ヨハネ10・7b~9)と。
今日の福音の後に続くことばが以下のようです。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」と。(ヨハネ10章11~14節)
とにかく、弱いわたしたちにとって、安心できる場、安全な場所は、大きく成長するために大事な必要な環境となります。このような環境は、人としての成長においても、信仰の成長においても求められることではないでしょうか。その真っただ中にいるのは、一人ひとりの「わたし」です。
イエスは今日も羊たち(わたしたち)の名を呼んでいます。
聞き覚えのあるその声(安心、安全の場)の方に向かって、きょうも歩みを進めて生きましょう。


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