
【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される
主の昇天(A年)の説教=マタイ28・16~20
2026年5月17日
わたしたちは、自分自身をよく「知る時」をどこかで見失ってはいませんか。デジタル化が進み、なんでも早く、効率的に、無駄なくこなすことが求められている現代。そして、すべてをスピーディーに前に進めることは大事ですが、それが当たり前であると、その心身に刷り込まれている現代人。それがゆえに、年配者に言わせると、何か事をやるにしても、お互いの出会いにしても、なにかが抜け落ちてしまっているような空虚感を、物足りなさを覚えてしまうとか。とにかくデジタル時代なんです。このままでは「人」がまともに育つのだろうかと思ってしまいます。その一つの気になる現象が、自分の休職・離職手続きを、他者に依頼する人たちの登場ではないかと心配しています。
その後もアップルウォッチ、多機能なスマートウォッチが発売され、普及しましたが、機械式腕時計の人気は下がるどころか上がったのでした。
学問的な視点からどうこう言える能力はないのですが、昔は、現代のように、科学技術が発展する前のことですから、今、生きていくために享受している便利さはありませんでした。それがゆえに、というよりも、それが、人の営みを進めていくために、ごく自然の在りかたっだったのです。基本的には、今もそれは生きているし、なくしてはいけない大事なことであろうと思っています。それというのは、人と人との生の出会い、直接に面と向かった語り合い、助け合いです。素手で交わりを持ち、保ち、深め、分かり合っていくのです。
いつかお話ししたかもしれませんが、わたしが京都にいたころ、喫茶店に入ってきた若い二人の男女の振る舞いというか、何しに来たのかわたしには理解できないことがあったのです。入ってきた二人は向かい合って席を取ります。そしてスマホを取り出しメールを送っています。それが長いこと続いているようでした。せっかくゆっくりできるところに入ってきたのに、語り合わないのかと。昔の若者は、よくおしゃべりしていたのに、今どきでは語り合わないのかと思っていたら、メールで「語り合っている」んですよ。時々顔をあげて確認しあって。目の前に相手はいるのに、言葉を語ることなく、文章でやり取りするなんて、便利さの使い誤りなんじゃない、と思ってしまいます。これで分かり合えるんですかね。ひょっとして、自己満足させるために相手と付き合う・・。付き合い方の大変貌ぶり、驚きしかありません。

聖書の世界は、その大昔の話ですから当然のことです。イエスのやり方は「対面教話」でした。しかも、イエス自らが人々に近づいて励まし、癒し、元気づけるのです。コミュニケーションの媒体は何かといえば、イエスの語る言葉、声音、それとイエスの愛の心が表れるその姿全体です。特に弟子たちは一番身近でありながら、なぜか、一番弱いダメ人間でした。それがゆえに、弟子たちに目をかけられるのです。
いよいよの時が来ると、復活したイエスは墓を尋ねた婦人たちに現われ、兄弟たちにガリラヤへ行くように告げよとお命じになります。ガリラヤの山は、山上の説教やご変容が起こった場所であり、イエスの本当の姿が現わされた場所であります。
ガリラヤの山で、イエスは集った弟子たちに近づきます。ひれ伏した弟子たちの中には「疑う」ものもいたのです。イエスはそれを咎めるどころか、「いつもあなた方とともにいる」と宣言されるのです。それも「世の終わりまで」です。そして、弟子たちは新しい指示を受け取るのです。それは「弟子とすること」にあります。その対象は広げられます。つまりは、イエスの語りかけを絶えず受け、それに生かされる人のことです。でも、そうした人にも「疑い」は残ります。それは、真の信仰への前段階です。なんといっても「世の終わりまで共にいる」との約束に裏打ちされた指示なのです。
イエスが復活したのは、信仰と現実のはざまで揺れ動く「わたしたち」とどこまでも共にいるためなのです。
イエスは、どこまでも「アナログ」の師です。


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