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主の昇天:イエスはどこまでも「アナログ」、わたしたちと「共にいる」師です

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主の昇天(A年)の説教⇒2026/05/17

【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される

主の昇天(A年)の説教=マタイ28・16~20

2026年5月17日

わたしたちは、自分自身をよく「知る時」をどこかで見失ってはいませんか。デジタル化が進み、なんでも早く、効率的に、無駄なくこなすことが求められている現代。そして、すべてをスピーディーに前に進めることは大事ですが、それが当たり前であると、その心身に刷り込まれている現代人。それがゆえに、年配者に言わせると、何か事をやるにしても、お互いの出会いにしても、なにかが抜け落ちてしまっているような空虚感を、物足りなさを覚えてしまうとか。とにかくデジタル時代なんです。このままでは「人」がまともに育つのだろうかと思ってしまいます。その一つの気になる現象が、自分の休職・離職手続きを、他者に依頼する人たちの登場ではないかと心配しています。

「アナログな時の刻み 魅力」という見出しが気になりました。それによると、古くからある機械式の腕時計が人気を博しているそうです。(讀賣新聞西部版2026年5月12日朝刊)

「岩手県雫石町の一角。セイコーの高級腕時計ブランド「グランドセイコー(GS)」の機械式モデル組み立てや調整、検査などを一貫して行う「グランドセイコースタジオ雫石」がある。『表からは見えない部分もきれいに、丁寧に作り込むように心がけています。』時計師の及川祐人さん(32歳)は、時計作りにかける思いを語る。機械式は腕にのるサイズの中に、米粒より小さいねじ、髪の毛より細いひげぜんまいなど200以上の微細な部品が詰まっている。時計師はルーペやピンセットを使い、組み立てる。100分の1ミリ単位の微細な調整も手作業で行う。

GSは、クオーツ式も取りそろえる歴史あるブランドだ。近年、スイスのグランプリで賞に輝くなど海外でも人気は高い。・・・1969年12月、セイコーは世界初のクオーツ式腕時計「クオーツ アストロン」を発売した。1日数秒~十数秒の誤差がある機械式に比べて、1カ月単位の誤差にまで精度を向上させた。当初は車一台分の高価な商品だったが、徐々に大量生産が可能になり、低価格化が実現。安価で高精度なクオーツの登場で、本場スイスの機械式腕時計メーカーは次々と倒産し、「クオーツショック」と呼ばれた。」

その後もアップルウォッチ、多機能なスマートウォッチが発売され、普及しましたが、機械式腕時計の人気は下がるどころか上がったのでした。

時計ジャーナリストで桐蔭横浜大教授の並木浩一さんによると、コロナ以降、旅行や車などの消費が抑えられた反面、家でも楽しめる高級品として機械式腕時計の需要が増加。人件費や材料費の高騰、円安により、価格はコロナ以前の約1.5倍に上昇したのです。並木さんは機会式の最大の魅力は①壊れても必ず直る②次世代に継承できる・・・点を挙げています。そして言われます。

「人々はデジタルの恩恵を受ける一方、バランスを取ろうとアナログ的なものに余計にひかれるようになっている。今後も機械式は残り続けるだろう」と。

学問的な視点からどうこう言える能力はないのですが、昔は、現代のように、科学技術が発展する前のことですから、今、生きていくために享受している便利さはありませんでした。それがゆえに、というよりも、それが、人の営みを進めていくために、ごく自然の在りかたっだったのです。基本的には、今もそれは生きているし、なくしてはいけない大事なことであろうと思っています。それというのは、人と人との生の出会い、直接に面と向かった語り合い、助け合いです。素手で交わりを持ち、保ち、深め、分かり合っていくのです。

いつかお話ししたかもしれませんが、わたしが京都にいたころ、喫茶店に入ってきた若い二人の男女の振る舞いというか、何しに来たのかわたしには理解できないことがあったのです。入ってきた二人は向かい合って席を取ります。そしてスマホを取り出しメールを送っています。それが長いこと続いているようでした。せっかくゆっくりできるところに入ってきたのに、語り合わないのかと。昔の若者は、よくおしゃべりしていたのに、今どきでは語り合わないのかと思っていたら、メールで「語り合っている」んですよ。時々顔をあげて確認しあって。目の前に相手はいるのに、言葉を語ることなく、文章でやり取りするなんて、便利さの使い誤りなんじゃない、と思ってしまいます。これで分かり合えるんですかね。ひょっとして、自己満足させるために相手と付き合う・・。付き合い方の大変貌ぶり、驚きしかありません。

主の昇天:「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
主の昇天(A年)の福音=マタイ28・16~20 〔そのとき、〕十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。

聖書の世界は、その大昔の話ですから当然のことです。イエスのやり方は「対面教話」でした。しかも、イエス自らが人々に近づいて励まし、癒し、元気づけるのです。コミュニケーションの媒体は何かといえば、イエスの語る言葉、声音、それとイエスの愛の心が表れるその姿全体です。特に弟子たちは一番身近でありながら、なぜか、一番弱いダメ人間でした。それがゆえに、弟子たちに目をかけられるのです。 

いよいよの時が来ると、復活したイエスは墓を尋ねた婦人たちに現われ、兄弟たちにガリラヤへ行くように告げよとお命じになります。ガリラヤの山は、山上の説教やご変容が起こった場所であり、イエスの本当の姿が現わされた場所であります。

ガリラヤの山で、イエスは集った弟子たちに近づきます。ひれ伏した弟子たちの中には「疑う」ものもいたのです。イエスはそれを咎めるどころか、「いつもあなた方とともにいる」と宣言されるのです。それも「世の終わりまで」です。そして、弟子たちは新しい指示を受け取るのです。それは「弟子とすること」にあります。その対象は広げられます。つまりは、イエスの語りかけを絶えず受け、それに生かされる人のことです。でも、そうした人にも「疑い」は残ります。それは、真の信仰への前段階です。なんといっても「世の終わりまで共にいる」との約束に裏打ちされた指示なのです。

イエスが復活したのは、信仰と現実のはざまで揺れ動く「わたしたち」とどこまでも共にいるためなのです。

イエスは、どこまでも「アナログ」の師です。

 

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