『復活節第6主日』の聖書と説教はこちら

復活節第6主日:「わたし」の「キリスト気質」に目覚める

この記事は約5分で読めます。
復活節第6主日(A年)の説教⇒2026/05/10

【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される

復活節第6主日(A年)の聖書=ヨハネ14・15~21

2026年5月10日

「人の振り見て我が振り直せ」という言葉があります。そして、「他人の姿や行動をみて、それによって自分の姿や行動の改めるべき点は改めよという教えである」との解説がついています。

(標準ことわざ慣用句辞典、旺文社)また、他の文献によると、特に浄瑠璃に多数の用例があり、江戸中期からよく用いられていたということです。(岩波ことわざ辞典、岩波書店)

人は「一人」ではとても弱く、思いを成し遂げることなどできるわけがございません。一人になってしまいますと、何にもやることが見いだせなくて、意欲が減退し、ひたすら時間だけが過ぎ去っていくような気がします。空しくなってきますね。最後は、己を見失っていくのではないでしょうか。こうして、独りぼっちになったと思い込み、社会から隔離されたかのような状態に我が身を追いやっていくのでしょう。

でも、こうした社会の姿が今現実化しているような気がしています。自然災害等が起きるたびに問題になるのが、独り住まいのお年寄りです。いかに安全に迅速に非難ができるかです。行政サイドもみなに分かりやすくとの思いから、災害避難時の呼びかけ方を工夫してくれているようです。この際も大事なのは、ご年配の方々が、自分は「独りぼっち」という感覚を持たないことです。みなさんはみな、「隣り近所の『わたし』『あなた』」なのです。

こう考えてくると、昔の「長屋住まい」が懐かしく思い出されます。食べものをあげたり、もらったり、又は物々交換をしたり、と助け合い、支え合って、温かい血の通った日々の生活ができていたものです。

また、何かの記念とか恒例になっている習わしをはじめ、一年のある時期に行われるお祭りや行事など、催事の中身そのものに、日本人気質が宿っているのではないでしょうか。

去る5日は「子どもの日」でした。その日にちなんで鹿児島市金生町のよかど鹿児島本店ビルで「赤ちゃんハイハイレース」が行われました。鹿児島銀行が運営する商業施設「よかど鹿児島」が、赤ちゃんのがんばる姿を一緒に応援しようと企画したものです。

「レースには県内各地から集まった約60人が出場し、4人ずつ競った。4メートル先のゴールで待つパパやママを目指してスタートすると、赤ちゃんたちは一直線にハイハイしたり、泣き出して進まなかったりと様々な姿を見せ、会場は笑顔と歓声に包まれた。長女保乃ちゃん(10か月)のレースを見守った同市の公務員肥田直斗さん(28歳)と妻・菜々美さん(28歳)は『大勢の人がいて緊張したのか、泣き出してうまくハイハイができなかったけど、ちゃんと完走できて良かったです』と喜んでいた。」(讀賣新聞西部版2026年5月6日朝刊)

この行事そのものは、将来の日本を背負って立つ、今は赤ちゃんながらも、将来の大器を祝ってみなが集まれる喜ばしいひと時です。お互いを見知らぬ人が一堂に会し、同じ心で参加し、同じ一つのことを願いつつも、和やかなひと時を味わえる貴重な場でもあります。お互いがお互いを慮ってより和む状況を作り出し、こうして知り合いになり、おなじ成長を希望し、願いながら家路につくのでしょう。

日頃の、たくさんの人との出会いの中でも、このこと、つまりは、他者を気遣い、配慮しあっていくことを大事にしているのではないでしょうか。このように、日本人気質は引き継がれていくんですよ。日常の積み重ねが「日本人」の中に沁み込んでいくんですね。同じように、それぞれの国の「国民気質」が一人ひとりに備わっていくのでしょう。

さて、わたしたち信仰者にも、「信仰者気質」なるものが備わっているのかな、・・・。それもイエス・キリストを信じる「キリスト気質」が備わってきているのではないでしょうか。そのことを意識されたことがおありでしょうか。

復活節第6主日:「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」
復活節第6主日(A年)の福音=ヨハネ14・15~21  「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。

これらのことは、「備えよう」と意識して備わっていくものではなく、普段の小さな積み重ねが自ずとそうさせてくれるのではないかと思うのですが、・・。日々の小さな祈りを大事にしていますか、短くても聖体訪問できる時には尋ねていますか、・・・。そういえば、わたしが幼い頃に、目にしていた信者さん方の習慣(?)とでもいうのでしょうか、あることを思い出しました。

長崎の大浦天主堂の近くに住んでいたころの話です。わたしは小学生でした。教会は目の前にありましたので、よく教会に出入りしていました。唯一教会敷地内に、広い運動場があったのです。その隣には山林が広がり、子どもの遊び場にはもってこいのところです。

教会に行く時に、よく天主堂の前を通過する信者さんが、いつも教会に向かって一礼して通るんですね。わたしも通り過ぎるときは、そのまねをしていたものです。大きくなって思えば、一礼は、神へのご挨拶だったんですよ。聖堂内に入るためには50段近くの階段を上らないとたどり着かないので、一番下の階段からのおはようございます、こんにちは、こんばんは、だったんです。これも非常に短いながらも聖体訪問でしょう。こうして、キリスト信者気質は育っていきます。

今日の福音書でイエスが訴えたいことは、

「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」というみ言葉の中にあるのではないかと。つまり、イエスは聖霊を弟子たちには約束しますが、世に対しては、はっきりと否定的な表現をしています。

イエスから聖霊を約束された弟子たちは、立派な人だったからでしょうか。優秀な強い人だったからでしょうか。いずれに対しても「NO、ノー」です。弱さと闇があるということに関して言えば弟子たちとこの世に違いはありません。イエスの十字架が弟子たちにその闇と弱さを突き付けたのです。これはイエスとの壁にはなりません。自らの底なしの闇を見つめてしまったのです。弟子たちには自らを自覚する心があります。一方、「世」には赦しを求め、救いを求める心が欠落しています。

ここに、この世と弟子たちの違いがあります。

謙虚で祈りのあるこころに聖霊は宿るのです。これらは、「キリスト気質」であり、しかも、普段に積み上げられていく「キリスト国の国民性」です。

 

復活節第6主日【5月10日】の聖書はこちら

コメント

タイトルとURLをコピーしました