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復活節第5主日:試練を経て、一歩前へ、人間の常識を超えた信仰へ

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復活節第5主日(A年)の説教⇒2026/05/03

【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される

復活節第5主日(A年)の説教=ヨハネ14・1~12

2026年5月3日

わたしたちは、老若男女を問わず、すべての人が同じように時間をいただき、自由に振る舞える場を提供され、自ら思うとおりに、ことを前に進めていくことができます。

その結果がどのようなものであれ、自分が、己の思いとともに精一杯かかわった結果であることに違いはありません。良かれと思って成し遂げたものも、時として挫折としか受け止められないようなこと、時もあります。人間の常識でみれば、どうみても敗北、失敗としか見えない、受け止め方をされることもあるでしょう。

自らの過去を振り返ってみると、どちらかといえば、失敗だらけの出来事だけが思い出されます。良かったこともあったのでしょうが、なんといっても強く印象に残っているのは、ネガティブな出来事の方が多いということでしょうね。それだけ強いインパクトを受けてしまっているのではないでしょうか。

でも、年を重ねるにしたがって言えることがあります。「人の一生に無駄はない、無意味はない」ということです。わたしたちが失敗するときは、そのほとんどが「弱さ」所以の結果ではないでしょうか。また、意識的に失敗したとしても、そのままで終わるのではなく、その後の生活のどこかでプラスに転換するときがあります。その失敗のおかげで、このことができたとか、今、気持ちよく過ごせているとか、何かの役に立ってくるのです。

とにかく、人のいのち、その生涯において、がっかりすることはあっても無駄ではない、ただ、ひたすら前に進めていくだけです。

このような生き方を示してくれた人はイエスではないでしょうか。それこそ、人間の目から見れば、挫折、敗北としか見えない十字架刑の死に向かわれるのです。きょうの福音書は最後の晩餐の席での話です。

復活節第5主日:心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
復活節第5主日(A年)の福音=ヨハネ14・1~12 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。

十字架の話は、長い間イエスと共に過ごしてき、その教えを受けた弟子たちでさえも、理解しがたい、受け止め難い出来事でした。「十字架刑」という現実を前にして、弟子たちは恐怖すら覚えてしまうのです。挙句の果てはイエスの元から逃げてしまうのです。イエスを置き去りにしてしまい、彼らにとっては「つまずき」のもとになってしまったのです。

それらを承知の上でイエスは弟子たちに別れを告げます。イエスもかなり動揺しています。これまでのイエスは、語ることにも重々しさがあり、自信に満ちた振る舞いでした。弟子たちも安心しきってイエスに耳を傾け、ついてきたのです。自分たちの人生を完全に委ねきってきたのではないでしょうか。ですから、イエスの別れの宣告は、実に寝耳に水です。同時に不安の境地に自らを追いやってしまったのです。

それはまた、弟子たちのイエスに対する信仰の試練でもありました。でも、その試練に耐えられる者はいませんでした。イエスの受難とその頂点にある十字架刑にかかるイエスに、復活への神秘につながる力強さを感じ取ることができなかったのです。それまでのイエスに対する弟子たちの信仰は、人間的なレベルのものであったということができます。

それでもイエスはあきらめません。弟子たちの信仰が本物でないだけに、その信仰の薄さを指摘しながらも、強く、本物に近づくようにと、イエスは弟子たちに働きかけます。

きょうの福音書でも呼びかけておられます。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」
「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」このことを信じなさいと励まされます。
「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」

イエスが改めて上記の3つのことをあえて弟子たちに信じるようにと示されたのは、あまりにもみじめなほどに、弟子たちが動揺していたからでした。イエスは、わたしたちの信仰がうすいものであることをよくよくご承知です。それであっても、あきらめることなくわたしたちを励まし続けるのです。「心を騒がせるな」「わたしを信じなさい」と。わたしたちが日常の闇の中においやられてしまうときも、そのやみをのりこえる力がイエスの中にあることに目覚めなさい、と。

このイエスの言葉を信じる者は、イエスとともにその業を行うものになります。しかも、「もっと大きな業を行うようになる」(12節)と重ねて励まされます。

イエスの生涯は、外見でわかるところでは敗北感を匂わせていますが、人間的な常識を超えた神秘がイエスの神秘であることにかけていく信仰を求めていきたいです。

つまり、真の信仰は人間の力によるのではなく、神の恵みであり、聖霊の働きによるものであるということなのです。このことを証明しているのが、復活後の弟子たちの言動です。

わたしたちの人生にも、失敗はないのです。ひたすら前へ、・・・。

 

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