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復活節第5主日:「わたし」の罪、醜さを包み込むイエスの心に「今」目覚める

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復活節第5主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

復活節第5主日(B年)の説教=ヨハネ15・1~8

2024年4月28日

わたしたちは日々、はっきりとわかって意識している場合もありますが、ほとんどはそう意識されていない世界で、だれかとの交わりをもって生きています。

なんだか回りくどい言い方になりましたが、毎日の現実は、目の前にいる人との出会いであり、お付き合いであるわけですが、自分には意識されていない多くの人々との関わり合いを経て育ってきた自分があります。相手の方もそうです。そう考えていくと、それらの人々との出会いであり、お付き合いでもありうるのではないかと思うのです。そういうわけで、「意識されていない世界で、だれか・・」という表現が出てきました。

現に、日々いただく食事にしても、そのもとにあるものは、農家の人であったり、漁業の人(漁師)であったり、その他、肥料を作る人であったりと、かなり多くの人々にお世話になって、料理人によってレシピにまとめられ、家庭だと一般的にはお母さんの料理となって、わたしたち一人ひとりの心身の健康を維持しています。大げさに言えば、人類史が始まって以来、いつの時代もそうそう変わることなく、今と同じような関わり方で、わたしたちの日々は重ねられてきたのでしょう。

大事になるのは、そのつながり方、及び、何に、誰につながっているかです。それによって、自分の立ち位置が定まっていくからです。というより、自ずと自分らしい居場所が決まってきます。それほどに、交わりそのものが持つ影響力は大きいということです。

ところで、わたしたちは、多くの場所で慰霊碑とか記念碑とかをよく目にします。

慰霊碑とは、戦争や災害で亡くなった人々を追悼するために設立される碑です。その歴史は昭和天皇没後に始まります。日本には多くの慰霊碑が存在し、戦争や災害の追悼や記念のほか、慰霊や教育目的として使用されています。

記念碑は、人物,時代,事件などを歴史的,社会的,文化的に永久に記念するために作られたものを指します。(改訂新版 世界大百科事典より)

いずれの場合も、わたしたちは、亡くなられた方々とのつながりを求めて碑を立て、その場を訪れるのです。そして、感謝の祈りを捧げて、語らっているのではないでしょうか。慰霊碑、記念碑の前に立つと、自ずと手を合わせてしまいますよね。やはり、どこかでつながりを感じ、畏敬の念を覚えるのではないかと思います。お墓だってそうでしょう。故人との交わりの場がここにあると思い、墓参りをします。

復活節第5主日「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」
復活節第5主日(B年)の福音=ヨハネ15・1~8 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。

鹿児島市の天保山公園では、「中国人養父母」に感謝する記念碑が同公園に設置されてから今年で10年を迎えたといいます。中国で祖先を供養する清明節にあわせ、去る7日に、県日中友好協会が献花式を開き、県内の残留邦人ら約20人が集まり平和の祈りと願いを捧げました。その献花式において、鹿児島華僑総会会長で残留邦人2世の楊忠銀さん(87歳)は「養父母に感謝を伝える石碑は全国でも珍しい。各地に広がれば両国の友好関係構築の一助になる」と。養父母に育てられた高橋達雄さん(82歳)は「養父母がいなければ私は生きていない。敵味方関係なく愛を注ぐ広い器に救われた」と話しています。(南日本新聞2024年4月18日朝刊)

わたしたちの一生は、誰もが、誰かとのつながりの中で生きているということでしょう。

イエスの弟子たち、後に12使徒となった彼らも、イエスとつながっていたからこそ、信仰の弱さ、人間的な弱さを抱えていても、立派に、大胆にイエスを証しすることができるようになったのです。いったんは自分たちの弱さをばくろする体験を味わいつつも、恐れることなくイエスの教えを広め、より強固な信仰のうちに宣教を始めたのです。

今日のブドウの木とその枝の話は、最後の晩餐の席での話です。そのすぐ後には、イエスが逮捕され、あっという間に、十字架にかけられる裁判が始まり「十字架刑」が決定しました。弟子たちのもとからイエスはいなくなったのです。これから弟子たちの苦悩が始まります。それまではイエスと共にいて、イエスのよき理解者としての自分たちであると思っていたのです。弟子たちは自分たちの人生をかけてきたつもりでいたのです。

ところがどうでしょう。自分たちにも気づいていなかった自らの弱さに気づかされたのです。イエスの十字架刑でした。砂の上に建てられた家と同じく、弟子たちの信仰はもろくも崩れ落ちていきます。中でも、ペトロはイエスの十字架への道のりの途中で声をかけてきた女に、イエスを「知らない」と否定するのです。否みます。自分もやられるのではないかという怖さ、恐怖心から、イエスを見失っていきます。それまで持っていた自信たっぷりの信仰も本物ではなかったということです。

自分たちの力だけでは立っておれないのです。いわゆる、自分たちの存在の根拠を自分のうちに備えた自立的な存在とは言えないのです。生きる意義を与えてくれる根拠に「つながって」いない限り、実りある人生を送ることは難しい。そのつながっていたい相手というのがイエスです。神はイエスを通して働かれます。

「わたしのうちにとどまっていなさい」という呼びかけは、「わたしに信頼しなさい」という弟子たちへの励ましと招きの言葉でもありました。幹につながっているかぎり、その枝は生き続けることができます。弟子たちの弱さを包み込んでくれるイエスの心に信頼すること、これに目覚めたユダ以外の11人の弟子たちは、イエスにとどまり続けたのです。そこから力があふれてくるのです。

今のわたしたちに対しても同じです。わたしたちの罪も醜さもずるさも、すべて知ったうえで、それらを包み込んでくれるイエスの心を感じ取って生きたいですね。

それは、「今日」という日に、「今」という時にしかできないのです。

 

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