
【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される
年間第21主日(A年)の聖書=マタイ16・13~20
2026年8月23日
日本の西では、2026年7月28日に発生した「令和8年熊本地震」があり、東では、「千葉豪雨」と甚大な災害に見舞われました。
この度の地震では、「10年前の地震よりもひどい被害を受けた」という人々がかなりいらっしゃったという報道もあります。千葉の豪雨による被害も、豪雨が収まってみると、想像もできない被害が続出です。
自然界の力による災害は、できる限りの防御をわたしたちが施しても、その力に抵抗することはかないません。でも、「人間の業」である戦争は事前に防ぐことはできます。この度の二つの災害は、奇しくも日本では、「終戦記念日」と「お盆」に重なってしまいました。
世の中には、こうした事件が発生するたびに、この機会をとらえて新たな詐欺事件、SNSによる犯罪等も出てきますよね。こうした現象は実に悲しいです。
でも、こうした中で、明るい、嬉しいニュースもあります。(讀賣新聞西部版2026年8月17日朝刊)
人の世界では、その名が知られている「人」であれば、その周りの一般の人は疑うこともなく受け入れ、そして、その人から励ましを受け、元気をいただきます。その人の「素性」つまり、どのような方なのか、が多くの人に知られ、認められているからでしょう。世の人々の前に公然と姿を見せ、自分を語り、人々のためになる活動を展開し、だからこそ、それを見てますます励まされ、信頼度が増していきます。
とはいっても、その人が「何者か」は、すべてを知り尽くせません。いくつものその認知を遮るものがあるではないでしょうか。人って、自分、本人すらも、自らを分かっていないところがあるのではないですか。一生涯をかけて「自分探し」をしているのではないかと思っています。多くの人には、そう意識はされていませんが・・・。

今日の福音で「イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。」のです。イエスは、ご自分のことを「わたし」と称したり「人の子」と呼んだりします。きょうのマタイでは「人の子」と言われますが、マルコでは「わたし」となっています。(マルコ8章29節)
「人の子」という呼び名は、旧約聖書では「弱くはかない人間存在」を表しますが、黙示文学では、イエスは「人の子」であると同時に「天からの特別な人」であることが含意されています。(「ヨハネの黙示録」解説より)しかし、それはこの世からいったん捨てられ、殺された後に栄光を受けて人々を救う「人の子」です。また、不思議なことに、イエスが誰であるかが明らかにされるこの出来事は、異教の神や皇帝を礼拝する神殿の町、フィリッポ・カイサリアで起こります。
イエスが誰であるのかという問いは、福音書の最も大事な問いです。外に見えるイエスは、説教し、奇跡をおこない、それを見ている人々の心は、イエスという人間の「特殊性」にひかれ、「何者なのか」というイエスの「正体」まで見通すことなんてできないのです。ところが、弟子たちの目は、人々の見方とは違った目が生まれていたのです。これまでのイエスとのかかわりの中で、イエスの正体が「神の子である」ということに気づいていたのです。ペトロは今日の福音書にあるように、「生ける神の子キリストです」と荘厳に宣言します。
今のわたしたちにとってはどうでしょうか。イエスを見たこともありません。話したこともありません。なのに、「信じている」のです。信仰者としての生活の中で、イエスの正体が見えては消え、消えては見えることを繰り返しながら培われてきたものです。
ペトロがイエスを拒む凡庸さは、また、ペトロの信仰宣言の崇高さは、今のわたしたちの姿でもあるのではないでしょうか。どこかで神を高く見つめながらも、一方では平凡な、しかも、汚れた欲望に引きずられているのです。
でも、こうした強さと弱さのいり混じった今の「わたし」の上に信仰があり、そして、それは神の恵みに支えられているのです。
すべては神の恵みのうちに、・・・。


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