
【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される
年間第20主日(A年)の説教=マタイ15・21~28
2026年8月16日
言葉には、一つの表現によって、いろいろな意味合いを込めた言い方があります。日本語で言えば、その一つに、いわゆる、「四文字言葉」です。中でも今日は、「十把一絡げ」に興味を持ちました。
こうした現象は、新しいものではないように思います。教員の数が豊かであったころに何をしていたか、と言いたくなるような気もします。教育の現場は、知識、教養の伝授のみならず、それらの前提ともなる子どもたち(児童・生徒)の人間性の成長、それは、大人である教師の人間性に影響されるということを、いかに大事にしてきたのかということです。教師の持つ個性は豊 かで、一人ひとり、それぞれの特典を持ち、それだけに、子どもたちが受ける影響も豊かになるのではないでしょうか。教育の始まりは「人」です。そうではないですか。
これまでは、教師一人ひとりを大事にするというよりも、制度をいかに守るか、発展させるかに終始していなかったでしょうか。しかも、それらをつかさどるのは教師自身です。その上、やる事の量の多さは、年々増えてきたのではないでしょうか。一人の教師が抱える仕事量は、いわば、「十把一絡げ」で、教師のやる意欲、イメージがそがれて、上記の女性教師のようになったのではないかと、わたしなりに、表現不足で申し訳ないんですが、思います。教育現場の子どもたちは、置き去りにされてしまいがちになります。知識の伝授にしても、ましてや、子どもとの対話は、小学校の友人教師に聞いた話ですが、子どもとの対話に時間を割くことは十分できていないということです。本来、教師が願っている教育ができていないということは、さびしいですね。わたしは、なんといっても、未熟で表現が足りませんが、そう思います。

今日の福音でも、それと似たものを感じます。要するに、本当のこと、真実は、どこか違うところにあるのではないか、ということをイエスは指摘しているような気がするのです。
今日の福音書では、イエスの考えられないほどの冷たい言動に驚かされます。悪霊につかれた娘を持つ母親が、その苦しみをイエスに訴えたときの対応です。
「この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。」のです。でも、母親はそれでもイエスにすがり続けます。弟子たちも、イエスが持つ神の力によって、女の願い通り「奇跡を起こして欲しい」と願っています。「そこで、弟子たちが近寄って来て願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。』」という言葉には、弟子たちのそのような思いが込められています。女を力づくで追い払うつもりなら「追い払ってください」と願う必要はないからです。
神は、救いの力を現すために、具体的な出来事を必要とされました。それがイスラエルの民だったのです。彼らの上に栄光が輝くなら、異邦人の民も神の救いの計画を悟るだろうと計画されたのです。だから、イエスはカナンの女の願いを退けられました。ところが、選ばれたその民・イスラエルは不従順になっています。「律法主義者」になっています。それは、神の思いよりも規則・律法が優先する生き方を優先していたということです。一方で、イエスは、カナンの女の「信仰」を褒め、あるべき姿の生き方・「信じる」生活をお示しになりました。
規則は社会においては大事です。でも、その中で生きているのは、あくまでも「人」です。何もかも一緒くたにして、「人」を追い込み、締め上げてしまうのもどうでしょうか。
わたしたち一人ひとりは、はたしてどうでしょう?! 他者を「わたし」自身の内側にある「法律」で裁いていないでしょうか。みなが「物差し」を持っていますよね。
果たして、それはどのような、何なのでしょう。


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