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年間第20主日:イエス時代の律法主義と現代の制度中心主義は似てる?

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年間第20主日(A年)の説教⇒2026/08/16

【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される

年間第20主日(A年)の説教=マタイ15・21~28

2026年8月16日

言葉には、一つの表現によって、いろいろな意味合いを込めた言い方があります。日本語で言えば、その一つに、いわゆる、「四文字言葉」です。中でも今日は、「十把一絡げ」に興味を持ちました。

「十把一絡げ(じっぱひとからげ)」とは、いろいろなものを区別せずに一まとめに扱うこと、または価値の低いものとしてまとめて扱うことを意味します。お分かりのように「十把一絡げ」の意味の詳細は、大きく分けて二つの意味があります。

1.区別せずに一緒くたに扱うこと:種類や質の違いを無視してまとめることを指します。
2.価値の低いものとしてまとめること:個別に取り上げるほどの価値がないものを一括(ひとくくり)にするニュアンスです。

日常会話では、「最近の若者は…と十把一絡げにされると腹が立つ」といった形で、無差別に扱われることへの不満を表す場合があります。(Copilot Search)

語源と由来は
この言葉は農業に由来します。「把(は)」は稲や野菜など細長いものを束ねた単位で、10束を「十把」と呼びます。さらに「一絡げ」は一括りにすることを意味します。昔の市場では、品質や大きさが異なる稲束を区別せずに10束まとめて取引していたことから、「細かい違いを無視して一括りに扱う」という意味が生まれました 。

正しい読み方は「じっぱひとからげ」 です。「十」を「じっ」と読むのは、後ろに来る助数詞「把」がハ行で始まるための伝統的な読み方です。現代では「じゅっぱ」と読むこともありますが、伝統的には「じっぱ」が正しいとされています。(同上) 

「教員 心の健康対策急務」「子どもの多様化や親対応 疲弊」と大きく見出しが出ております。(讀賣新聞西部版2026年8月10日朝刊)その中身はといえば、次のようです。

「中国地方に住む女性(52歳)は今年3月、精神疾患による休職を経て、30年近い教員人生に終止符を打った。約6年前の最初の休職は過大な業務量が要因だった。小学校高学年の担任をしながら研究主任として授業改善を担った。夜9時まで残業する日が多く、休日も気が休まらなかった。
仕事は好きで頑張ることも苦ではなかった。『あと少し』と踏ん張ったが、卒業の準備が重なった1月の朝、体が重く起きあがれなくなった。3月まで休んだ後、新年度からは校内業務の負担を軽くしてもらった。・・・・・女性は『できない自分が腹立たしい。でも、もう教員として働き続けるイメージができなかった』と退職の決断を振り返る。」

こうした現象は、新しいものではないように思います。教員の数が豊かであったころに何をしていたか、と言いたくなるような気もします。教育の現場は、知識、教養の伝授のみならず、それらの前提ともなる子どもたち(児童・生徒)の人間性の成長、それは、大人である教師の人間性に影響されるということを、いかに大事にしてきたのかということです。教師の持つ個性は豊 かで、一人ひとり、それぞれの特典を持ち、それだけに、子どもたちが受ける影響も豊かになるのではないでしょうか。教育の始まりは「人」です。そうではないですか。

これまでは、教師一人ひとりを大事にするというよりも、制度をいかに守るか、発展させるかに終始していなかったでしょうか。しかも、それらをつかさどるのは教師自身です。その上、やる事の量の多さは、年々増えてきたのではないでしょうか。一人の教師が抱える仕事量は、いわば、「十把一絡げ」で、教師のやる意欲、イメージがそがれて、上記の女性教師のようになったのではないかと、わたしなりに、表現不足で申し訳ないんですが、思います。教育現場の子どもたちは、置き去りにされてしまいがちになります。知識の伝授にしても、ましてや、子どもとの対話は、小学校の友人教師に聞いた話ですが、子どもとの対話に時間を割くことは十分できていないということです。本来、教師が願っている教育ができていないということは、さびしいですね。わたしは、なんといっても、未熟で表現が足りませんが、そう思います。

年間第20主日:異邦人の女は「小犬も食卓から落ちるパン屑はいただきます」と訴えた
年間第20主日(A年)の福音=マタイ15・21~28〔そのとき、〕イエスは、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。

今日の福音でも、それと似たものを感じます。要するに、本当のこと、真実は、どこか違うところにあるのではないか、ということをイエスは指摘しているような気がするのです。

今日の福音書では、イエスの考えられないほどの冷たい言動に驚かされます。悪霊につかれた娘を持つ母親が、その苦しみをイエスに訴えたときの対応です。

「この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。」のです。でも、母親はそれでもイエスにすがり続けます。弟子たちも、イエスが持つ神の力によって、女の願い通り「奇跡を起こして欲しい」と願っています。「そこで、弟子たちが近寄って来て願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。』」という言葉には、弟子たちのそのような思いが込められています。女を力づくで追い払うつもりなら「追い払ってください」と願う必要はないからです。

神は、救いの力を現すために、具体的な出来事を必要とされました。それがイスラエルの民だったのです。彼らの上に栄光が輝くなら、異邦人の民も神の救いの計画を悟るだろうと計画されたのです。だから、イエスはカナンの女の願いを退けられました。ところが、選ばれたその民・イスラエルは不従順になっています。「律法主義者」になっています。それは、神の思いよりも規則・律法が優先する生き方を優先していたということです。一方で、イエスは、カナンの女の「信仰」を褒め、あるべき姿の生き方・「信じる」生活をお示しになりました。

規則は社会においては大事です。でも、その中で生きているのは、あくまでも「人」です。何もかも一緒くたにして、「人」を追い込み、締め上げてしまうのもどうでしょうか。

わたしたち一人ひとりは、はたしてどうでしょう?! 他者を「わたし」自身の内側にある「法律」で裁いていないでしょうか。みなが「物差し」を持っていますよね。

果たして、それはどのような、何なのでしょう。

 

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