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年間第17主日:時代とともにキリストのメッセージを伝える努力と工夫を

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年間第17主日(A年)説教⇒2026/07/26

【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される

年間第17主日(A年)の説教=マタイ13・44~52

2026年7月26日

わたしは教会のITサポート「826村」に原稿を投稿させていただいて20年余が経ちます。
お陰で、この間、以前よりもたくさんの日本語の日常会話で使う言葉の意味を、調べてきました。その中で、気づかされたことがあります。普段、使っている表現で、誤って使っている言葉、表現があるなということです。さらには、相手を大切にし、大事に思う意味深な表現があるということです。総じていうなら、日本語の意味の深さというか、広がりというか、とにかく、言葉の豊かさが目につきます。今、具体的に思いだしませんが、注意しないと相手に失礼になる使い方があったり、・・書き留めていたらよかったんですが、残念でなりません。

それでも一つの例をあげますと、ビジネスシーンでは失敗が許されないでしょう。

「『知らなかった』を上司に対して正しく敬語で表現するためには、丁寧語、尊敬語、謙譲語を組み合わせて使う必要があります。以下のように分解して説明します。

・「存じ上げませんでした」:謙譲語を使って自分の行動をへりくだって表現
・「承知しておりませんでした」:丁寧語と謙譲語を組み合わせて表現
・「認識しておりませんでした」:丁寧語を使って柔らかく伝える表現

上司に使う際には、敬意を持って丁寧に伝えることが重要です。また、相手の立場や状況を考慮し、適切な表現を選ぶことが大切です。」(work up by kairyusha)

まあ、なんとも神経が疲れます。しかし、多くの人が難なくこなしているんですね。仕事の上でお客様と接する時にも、同じような気遣いが必要になるのでしょう。疲労度がますます上がってしまいます。その際、善意ある人はその疲労度も格別ではないのでしょうか。つまり純粋で献身的な人ほど、何かを求める心も豊かではないかと思うのです。それが何かを本人すら気づいていないが故に、その葛藤はすさまじいのです。

今日の福音は、わたしたちの生きる現場でその生活の有様を話題にして、イエスはたとえを語りました。天の国を理解させようとしたのです。そして、その現実から、新しいもの、すなわち神の働きを見出すことができます。このことは、現代の今でも同じです。日常の生きる現場で必ず発見することができるのです。

「イエスの言葉に導かれるとき」という条件が付きます。これに気づかないままだと、キリストも神も隠されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3章16節)にもかかわらず、人々は愛が消えたといって孤独に苦しんでいます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11章28節)といってすべての人々の労苦を背負うことのできる方が、「わたし」のために与えられているにもかかかわらず、誰もわたしに力をかしてくれないといって嘆き苦しんでいる人がいるのが現実です。

年間第17主日:天の国は隠されている宝にたとえられる。見つけた人は…
年間第17主日(A年)の福音(マタイ13・44~52)〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

でも、この話を聞いているのは弟子です。弟子はイエスの言葉を理解できます。ここには先週の福音のように「弟子」になれずに「群衆」に留まる人々は登場しておりません。天の国を知る立場にある人びとは、わたしたち皆なのです。だからこそ、すべての出来事の中に神の働きを見出すことができるのです。なんといっても、わたしたちは「弟子」だからです。

世の中には、カトリックの信者ではありませんが、多くの善意ある方々がいらっしゃいます。その方がたにもイエスの言葉は向けられています。そして、その方がたの中に問題、課題を抱えて悩み苦労している方がいるのです。その課題の奥に示されているイエスの言葉に気づく時、すべての人に開かれた天の国にも気づくでしょう。そして、きょうの福音に出てくる二人と同じように、自分の持ち物を全部売り払ってでも手に入れたいと望む「天の国」、それを自分のものとするために、イエスとの出会いをなによりも大切にしていくことでしょう。

でも、現実には、なかなかそうなっていないのです。わたしたちの社会に、真実の愛に飢え、理想に乾いている善意ある多くの人が無数いるのに、それがキリストと結びつかないのです。どうしてなんでしょう。

そもそもイエスを知らない人々には、知るきっかけもないのに彼らに責任はないでしょう。むしろ、イエスを知っているわたしたちに、イエスを紹介し、イエスを伝える責任があるのではないでしょうか。人々を取り巻くあらゆる出来事に現われている神の働き、つまり「天の国」に気づかない人びとを無くす働きが、「福音宣教」に求められているのではないかと思います。それを棚に上げて、イエスの言葉が何たるかに気づいていない善意ある人々が、いけないとは言えないような気がします。

時代の流れとともに、キリストのメッセージを伝える努力と工夫が、一層、求められているように思います。努力と工夫の中で、宝であり、真珠であるキリストを伝えるとき、この世にもさらなる喜び、平和があふれることでしょう。

そうありたいなと思います。希望を失うことなく前に進めましょう。

 

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