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年間第16主日:イエスは、今もなお、「わたし」に向けて語り続けます

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年間第16主日(A年)の説教⇒2026/07/19

【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される

年間第16主日(A年)の説教=マタイ13・24~43

2026年7月19日

わたしたちの日常生活の中で、マスコミを通して知らされる言葉で、気になるものがありませんか。わたしにはあります。「逆走車」とか「煽り運転」とか。中でも、「煽る」という言葉が気になり、調べてみました。それによりますと、以下の説明がありました。

『煽る』という言葉は、現代では主に『そそのかす』『おだてる』という意味で使われています。特にインターネット上では『相手の感情を刺激する発言』を指すネットスラングとしても定着しています。また、社会問題となっている『煽り運転』は、他人の車を急がせる行為を指しますが、実際には車間距離を詰めるだけでなく、威嚇行為にまで発展するケースも少なくありません。さらに古典的な意味では、風や火の勢いで物を動かす様子や、馬を急がせる動作も表します。『平家物語』の『木曽最期』では、馬を急がせる場面でこの言葉が使われており、日本語の豊かな表現力を感じさせます。ビジネスシーンでは『購買意欲を煽る』のように、人々の感情や行動を促す意味でも用いられ、多様な文脈で活用される言葉です。

一言で 『煽る』と言っても、状況によって全く異なるニュアンスになるのが面白いですね。言葉の持つ力と責任を改めて考えさせられます。・・・その奥深さは計り知れませんね。良い意味でも悪い意味でも、人を動かす力を持つ言葉だからこそ、使い方には責任が伴います。

有名なエピソードとして、プロ野球の長嶋茂雄氏が現役時代に若手選手を鼓舞する際、『お前ならできる!もっと煽って行け!』と声をかけていたという話があります。また、作家の太宰治は『人間失格』の中で、主人公が周囲から煽られるようにして堕落していく様子を描いており、言葉の持つ心理的影響力の大きさを表現しています。近年では、タレントの伊集院光氏がラジオで『煽り運転は絶対にやめよう』と呼びかけるなど、社会的な啓発活動にもこの言葉が関わっています。

言語学的に見ると、『煽る』は他動詞として機能し、対象に働きかける行為を表します。興味深いのは、同じ読みの『煽ぐ』が自動詞的な性質を持つことです。また、この言葉はポジティブな文脈(熱意を煽る)とネガティブな文脈(争いを煽る)の両方で使用可能な両価的性質を持っています。歴史的には、室町時代から用例が確認され、時代とともに意味範囲が拡大してきました。現代日本語では、物理的動作から心理的作用まで幅広い意味をカバーする、意味領域の広い動詞の典型例と言えます。」(言葉の意味辞典より

ちょっと長い引用になりましたが、言葉の持つ力、それが及ぼす範囲の広さ等、日常の言葉使いには慎重さが求められますね。

その言葉をうまく活用して、他者への売り込みを続けてきたのがイエスです。つまり、イエスの宣教活動です。イエスの元に集まってきた群衆は、さまざまな人がいました。時の流れとともに、イエスを慕いイエスを信じる人々の共同体が出来上がってきます。一つの共同体が出来上がると、自ずとそこに指導的立場に立つ人が出てきます。人間の集まりですから、指導的立場に立つ人が、共同体のメンバーの中から、する役割を果たす人を選んだり、その際に、どこにでもありがちな、やっかみからくる他者批判、非難等、他者を裁きあってしまう傾向が出てきます。このような姿を見て、イエスは「毒麦ののたとえ」を話されたのではないかといわれます。いわゆる、「裁きあう」ことの愚かさ、空しさを指摘し、気づいてほしかったのです。

イエスを慕ってくる人には、いろいろな人がいたはずです。社会的に認められた地位にある人とか、社会の底辺で苦しみを背負いながらも一生懸命生きている人、また、社会的に罪人といわれていた税吏や大酒のみなど、その反対に模範的な人もいたでしょう。

年間第16主日:イエスは神の国について、たとえを用いて群衆に語られた
年間第16主日(A年)の福音(マタイ13・24~43) イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。

こうした様々な人の群れを前に、イエスの説教、奇跡等を、みなが全てを同じように理解し、受け止めることなどあり得ません。それには温度差があります。しかし、外見から一人ひとりの心のうちは分かりません。その優劣、真偽を確かめることは無理な話です。

これと同じように、麦も毒麦も育ちの初期のころ、実をつけるまでは全く判別ができないと言われています。したがって、農民は収穫の直前までそのままにしておきました。イエスは農耕法に関するこの現実の知恵を借りて、天の国のありさまを語ります。

毒麦を収穫するときは、「今」ではなく、「刈り入れの時」です。その時、毒麦は必ず焼き尽くされます。イエスはそのことをご存じであるがゆえに、悪に対してあわれみ深く、忍耐強く宣教されるのです。イエスのたとえに耳を傾け、そこに「天の国の秘密」を聞きとることができる人が「弟子」であり。聞き取れない者が「群衆」です。34節では、それまでイエスの言葉を聞いていた「彼ら」が「群衆」に言い換えられています。

こういう言い方はふさわしくないかもしれないですが、宣教することは、いわば、「煽る」ことではないかと。「人の感情(心)や行動を促す」という意味で、一人ひとりをイエスの方へと押しやっていくのです。現代ではあまりいい印象を感じさせないことばではありますが、いうなれば、相手の方を「その気にさせる」というような響きを感じさせます。別の言葉で言えば、あくまでも最終的に「その気にさせる」のはその人本人ですが、いい刺激を与えて聴き取ることができるように心の扉をたたいているのがイエスです。

それは昔のことではなく、今もなお、わたしたちに向けて続けられています。

 

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