
【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される
年間第14主日(A年)の聖書=マタイ11・25~30
2026年7月5日
今の時代、「異常」という言葉が、いろいろな場面に使われます。
先ずは、「異常気象」、人口減少に伴う少子高齢化もまた異常です。そのことに連動して働く人の不足。そこから出てくる教師不足、医師不足、看護師不足等、これまた異常現象です。それにより、会社によっては、それこそ「働きかた改革」に踏み切らないと、体力がもたないといいます。本当に良い方向に改革できればいいのですが、「改悪」になっては困ります。
先ほど申し上げました医師不足、看護師不足はこの鹿児島でも叫ばれています。
自然界の「異常性」は突然に来るように見えますが、長年の積み重ねがあっての結果です。その「負の積み重ね」を提供してきたのが、わたしたち人間ではないのでしょうか。自然界のリズムを狂わせてしまったのです。それにより、わたしたちの生き方も変わり、その人間性までもがしっかりと影響を受けてきています。
一方で、人間はこれらを元の姿に戻すだけの知恵と技術をも持っています。それらをうまく使って、自己中心の生き方ではなく、周りを配慮できる生き方に目覚めてくると、一気に社会の生き方が変わってきます。それにより自然界も元のリズムのある世界に戻っていくでしょうに。一人ひとりがそう思って、確信して前に進めることでしょう。今、切に強く望みたいですね。
このような「異常な」社会にあっても、他者のお世話を背負って生きている人々がおられます。そういう方でも、いつも人間の限界がまとわりついてきます。業務を果たす中で疲れたりすれば、感情的になったり、イライラしたり、ときには、心のバランスを崩してしまったりします。そして、その現場から逃避したくなることもあるでしょう。相談を持ちかけられても、自らの責務を果たすことで目いっぱいとなり、助けてあげたい気持ちはあっても、ゆとりがなくそっけなくしてしまがちです。だからこそ、お互いが慮ってあげられる人に成長したいですね。
本日の福音では、「 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(マタイ11・25~30)とイエスがわたしたちを招いておられます。
わたしたちはこのような招きの言葉を口にしたことがあるでしょうか。いや、そうできるものでしょうか。「たまには顔を出して・・」とか「お茶飲みに来いよ」とかは言えても、・・。親になった人、医師・看護師のように、人の世話を背負った人は、自分とかかわる人に同じような言葉かけをしたことはあるでしょうが、無差別に誰にでも呼びかけることなんてできませんよね。その上、無制限に来てもらっても、それらの一人ひとりに対応する能力もないでしょう。
わたしたち人間は、一人ひとりの労苦、重荷に対して全くの無力です。特に、人の世話を背負った人々、医者、看護師、家裁の調停員、いのちの電話などで現実の人々の苦しみに接している方々は、いくら全力で相手したとしても、どこか無力さが残ります。ただそばにいることが精一杯ということもあるのではないでしょうか。そして祈ることしかできない、と思いがちです。それだって素晴らしい奉仕なのですが、どこか、・・・何かが残ります。誰であっても、わたしたち一人ひとりも、エゴイズムや欲望からくる自らの重荷を背負っているからです。
わたしたち人間の現実はこうであっても、きょうのイエスは「 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」と呼びかけられます。わたしたち人間の常識からすると、常識外れの存在ということになります。いや、常識を超えた人なんです。つまり、わたしたちと異なってその内側にはエゴや欲望のかげりすらないということです。したがって、わたしたち一人ひとりを相手に、まことに愛する心があるということです。その上、わたしたち一人ひとりの重荷、労苦等を解決してくれる力もお持ちだといういことです。
このようなことは、わたしたち人間の世界では考えられないことだし、でも、じっくり思えばとんでもなく大変なことですよね。そして、それは現在の、今のこの瞬間にも同じ言葉で招かれているのです。いい意味での「異常な」方であるといえます。
だからこそ、何千年たっても、イエスは常に人々の希望であり、力であり、わたしたちの生きる道の光であり続けるのです。


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