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キリストの聖体:わたしたちは大勢でも一つ、皆が一つのパンを分けて食べる

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キリストの聖体(A年)の説教⇒2026/06/07

【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される

キリストの聖体(A年)の説教=ヨハネ6・51~58

2026年6月7日

世の中が便利になっていけばいくだけ、生活が楽になり、安全で、安心できるかといえば、必ずしも世の「便利さ」に比例していないように思えます。逆に、反比例しているのではないかとさえ思わせる事件が多発しています。テレビ、新聞等の報道機関は、連日、悲しい出来事、考えられないような惨めな事件等が、あまりにも多いような気がして、便利になったとはいえ、日々の生活の安全、安心感が揺らいできているのではないでしょうか。これにより、人間性までもが影響を受けているのではないかとさえ思えます。

何か新しい便利な、居心地のいいもの、ことが登場すると、必ずと言っていいほどにそれらにまつわる犯罪も出回ります。その度に新たな法律の改正が必要になってきます。なんだか「いたちごっこ」みたいな感じです。例えば、オレオレ詐欺などの犯罪は、警察が取り締まったとしてもなかなか世の中からなくなることはありません。再び別の形の詐欺に変わり、同じような犯罪が繰り返されてしまう現象が起きています。それが、最近では人の命が奪われる事件にまで発展しています。しかも、低年齢層の若者がそれに関与している報道が、・・実に悲しいですね。

わたしたちは今、自分が生きていることの評価、価値をどこに置いているのでしょう。

今日は聖体の主日です。わたしたちの命に関するメッセージが今日の福音に示されています。わたしたちのいのちを育てるもの、それはイエスの肉であり、血であると強調されています。

「『わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。』それで、ユダヤ人たちは、『どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか』と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。』」(ヨハネ6章51節~55節

これは、考えてみますと実に大変なことです。わたしたちの常識ではとてもじゃないですが、考えられないことです。当時の多くの人々も「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」と言って、イエスから離れていきます。もっともなことかもしれません。しかし、12人の弟子たちはとどまり、イエスの言葉を信じます。

「イエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた。シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。』」と。(ヨハネ6章67節∼69節

わたしたちは明確に言うことができます。自分の「いのち」は自分でつくり、自分で育て、高めてきたものではありません、と。しかし、もしも、そう思う人がいるとすれば、大いなる錯覚でしょう。わたしたちの今のいのちは、与えられたものであり、生かされてきたものです。親の愛がなければ今の「わたし」が育ってきたといえるでしょうか。わたしたちが一人前になるには、どれだけの人が関わり、保護し、支えてきたかを、わたしたちは知る由もないのです。それに関わってくださった人の輪は、永遠の広がりをもち、報酬が要求される支えでもないのです。無償の愛です。

わたしたちの世界で、人が育つための「肥し」になっているのは食べ物であり、飲み物であり、励ましの言葉であったり、他者からの援助の働き・手助けであったりします。敢えて言うまでもないことですが、わたしたちの育ちには、心の育ち、体の育ちがあります。

キリストの聖体:わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る
キリストの聖体(A年)の福音=ヨハネ6・51~58 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせること・・・

ヨハネ福音書で、6章の22節~58節に「天から降ってきたパン」についての話が繰り広げられています。51節前半までの「パン」は、人が聞いて従うべきみ言葉の象徴であり、そこでの「パンを食べる」とは、イエスを神の言葉として受け入れ、深く心に留めることのように見えます。確かに、「信じる」が繰り返されており、永遠の命をもたらすのはイエスの言葉だと理解できます。

しかし、今週の福音になると「パン」のイメージから曖昧さが消えてゆきます。イエスが与えるパンは、イエスの「血と肉」そのものであることが明確に示されています。つまり、イエスの「肉を食べ、血を飲む」ことが永遠の命への道であるということが明らかにされているのです。

「食べる」とは普通に「むしゃむしゃ食べる」ことを表しています。つまり、イエスの血と肉をご聖体の形で実際に食べることに焦点が合わされています。とすれば、「永遠の命を持ち、イエスが終わりの日に復活させる」とは「いつもイエスのうちにおり、イエスもまたいつもその人のうちにいる」ということと同じであり、これを実現させるのが「まことの食べ物」なのです。すなはちご聖体です。

子どもに向かう母親の愛が母親を駆り立てるように、わたしたちに向かうイエスの愛が、イエスをご聖体の制定まで動かしたのです。ご聖体をいただくたびごとに、今のわたしのいのちの背後にイエスの愛があることに感謝し、人々にも知らせていくことができますように。

時は流れていきます。その時世にあった宣教を考え、深め分かち合いましょう。わたしたちは大勢でも一つの体です。「皆が一つのパンを分けて食べる」からです。そして、

わたしたちは新たないのちを生きるものとされます。

 

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