
2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め
年間第27主日(A年)の説教=マタイ21・33~43
2023年10月8日
子どもたちの成長していく姿を見ていますと、もちろん、逐一、手に取るようにわかるわけではありませんが、人間の持つ「すばらしさ」と「醜さ」を見る思いがします。なぜ子どもを見てそう思うかといえば、子どもは、その場を「繕うこと」、つまり、自分の言動をごまかすことをしないからです。というより、できないからです。だから、いつも正直だし、真剣だし、一生懸命だし、その時のそのまんまの自分(人間性)を表現してくれるからです。
さらに、その姿を見て思います。人間は、もともとは思いやりがあって、やさしさを素直に表現し、人が喜ぶことを、なんのためらいもなく行動に移せる存在ではないかということです。大人から見て、子どもの言動は、その子に「悪知恵(?)」が、これは主に、周りの大人が提供するものではないかと思いますが、身につくまでは、本来はいいことばかりをしているんだなと感じるのです。これが元々の人間の姿なのではないかと、・・。
それが周りの人から、事象から受ける影響により、自らの判断力がついてくると、取捨選択しながら、自分に合ったもの、出来事を選び取り、自分のものにしていきます。そこには純なるものばかりではなく、むしろ、不純なものが多数含まれているといえます。また、その不純なものに限って、魅力を感じる、心揺さぶられるものがあるんですね。この魅力あるものを選択し続けて日々を過ごしていくと、気づかないうちにその人は「悪いこと」を平気で行うようになってしまっている自分に気づかないまま進んでいきます。良心の働きを自らがいつの間にか減退させてしまっているのです。そうなると、悪いことへの誘いがあると、すぐに反応して飛びつきます。
最近では社会が発展し、情報入手が便利に、より簡単になって、どこからでも、誰もが即座に手に取り、発信できるようになってきました。この便利さを利用する若者が増え、同時に、近頃では「闇サイト」なるものが流行してきました。インターネットを悪用した強盗などの事件が続発しているのです。事件は昨年12月以降、東京と神奈川、千葉、栃木、埼玉、茨城の6都県で、少なくとも10件起きています。民家や店舗に複数の男らで押し入り、住人を殴ったり、店のショーケースをたたき割ったりして、金品を奪う手口です。今年初めの1月19日には、東京都狛江市の民家で高齢女性が殺害される強盗殺人事件まで起きました。女性は両手首を縛られ、全身を殴打されていたという。あまりの残虐さに怒りを禁じ得ません。(讀賣新聞2023年1月24日ネットニュース)
手口の似通った強盗事件は、西日本でも確認されています。複数の犯行グループが各地で暗躍しているとみられており、不安を感じている住民も多いでしょう。都道府県警は緊密に連携し、事件の連鎖を食い止める必要があります。一連の事件の特徴は、実行犯がネットの「闇サイト」を通じて、集められていたことです。

「罪を憎んで人を憎まず」と言われますが、このことは、人間は根本的に言って、悪人はいないということではないでしょうか。確かに、弱さからくる失敗はあるかもしれない。でも、そのことを後悔し、改めていくことが出来るのも人間であるでしょう。
今日の福音書のたとえ話では、農夫たちの残虐性が特に目につきます。実に残酷です。「農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。」と。
とてもじゃないけど、現実にはありそうもないような話ですが、当時の時代背景が影響しています。ガリラヤ地方は、久しく外国の支配下に置かれていたのです。当然のことながら、外国人の地主のもとで僅かな賃金に甘んじ、苦しい生活を強いられていました。それゆえに、農民たちの心には、外国人に対する根強い反発心がありました。中には先祖代々の土地を取り戻そうとして暴力行為に訴える人もいたのです。こうした現実がこのたとえ話の背景にあります。
でも、イエスの話の中心は、搾取されていた農民の苦しさ、悲しさというよりも、農民たちの残虐性に強調点が置かれているように見えます。つまり、その時のイエスが置かれていた状態が影響しています。
イエスはこれまで、幾度となくイスラエルの人々の心に、愛と憐れみを訴えてきました。また、生活に疲れた人、社会の底辺に追いやられて苦しんでいる人、罪びと遊女、その他落ちこぼれといわれてきた人々をやさしく包み込み、励ましのメッセージを伝えてきました。そうしたイエスの心と狙いを快く思っていない律法学士、長老、祭司長たちには受け止めてもらえなかったのです。
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」(マタイ23章37節)と嘆かれたイエスは、自分たちの指導に誇りを持っていた律法学士、祭司長たちの心の中に、このような残忍な心を見ていたのでしょう。その心には傲り高ぶったものを感じます。この欲望を守ろうとすると邪魔者を排除しようとする形をとります。その結果が、イエスを十字架上の刑に送り出してしまったのです。
イエスは、こうした自らの心のうちを抱えつつ語られたのが、今日のたとえ話でした。
今日のイエスは、わたしたちに言われます。
回心すること、立ち返ることを「邪魔するもの」に注意しなさい、気づきなさい、と。
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