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四旬節第5主日:イエスは「あなたを罪に定めない。行きなさい」と言った

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四旬節第5主日(C年)の聖書

四旬節第5主日(C年)の聖書

四旬節第5主日(C年)の聖書=ヨハネ8・1~11

2022年4月7日

〔そのとき、〕 8・1イエスはオリーブ山へ行かれた。

2朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。

3そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、

4イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。

5こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

6イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。

7しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

8そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。

9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。

10イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」

11女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

 聖書本文は 日本聖書協会の「新共同訳聖書」から引用しています。
日曜日の聖書は、日曜日の説教とともに毎週木曜日の夕方に更新されます。
カトリック教会では日曜日のことを主日(しゅじつ)と言います。

日曜日の説教もどうぞ!
日曜日(主日)の聖書に続いて、YASUさんの説教(メッセージ)はいかがでしょうか!
YASUさんはカトリックの神父さんです。

2022年4月3日の説教

四旬節第5主日:人に石を投げる代わりに、恵みを注ぎ続ける神に向かおう
イエスの言葉は、安易に裁きたくなる人びとに、自分の現実に目を向けてみなさいと促しています。人が裁こうとしている人を神はそっと支え、救おうと働きかけているのです。神は、人間のすべてを知りつつ、石を投げる代わりにゆるしの恵みを注ぎ続けておられます。今も、これからも。

2019年4月7日の説教

四旬節第5主日:人はゆるされて成長し、他者に開く度量も備わっていく
強調したいことは、人には他人を裁く資格があるのかということ。絶えずゆるされ続けてきた存在です。律法学者たちも、そのことに気づかされたのではないでしょうか。悪だくみを考えつつ、自らの何たるかに気づかされ、最終的にはイエスに救われたのです。

2016年3月13日の説教

四旬節第5主日:イエスと出会って新たな一歩を踏み出す力を願いましょう
これを聞いた人は一人ひとりとその場からいなくなってしまいます。この女を裁く人は誰もいなくなりました。イエスさまは「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われます。

2013年3月17日の説教

四旬節第5主日:人の原点は神に愛され、ゆるされ続けていることです
人は人を「罪人」であると判定できません。同じことをしでかす弱さを持ち合わせている人間であるとわかっていても、神はゆるし続けるのです。ゆるされ、愛され続けている「わたし」を実感したいですね。

第一朗読と第二朗読を下の方に掲載しましたので、続けてお読みくだされば嬉しいです。実は、カトリック教会の主日(日曜日のこと)のミサでは第一朗読、第二朗読に続いて、三番目に上記の聖書(福音書)が朗読されます。

【注】第一朗読は復活節を除き、旧約聖書が朗読されます。因みに、復活節は新約聖書の使徒言行録が朗読されます。また、第二朗読では、新約聖書の中の使徒書と呼ばれる聖書が朗読されます。

第一朗読>>イザヤの預言

(イザヤ43・16-21)

主はこう言われる。
海の中に道を通し
恐るべき水の中に通路を開かれた方
戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し
彼らを倒して再び立つことを許さず
灯心のように消え去らせた方。
初めからのことを思い出すな。
昔のことを思いめぐらすな。
見よ、新しいことをわたしは行う。
今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。
わたしは荒れ野に道を敷き
砂漠に大河を流れさせる。
野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。
荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ
わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。
わたしはこの民をわたしのために造った。
彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。

第二朗読>>使徒パウロのフィリピの教会への手紙

(フィリピ3・8-14)

〔皆さん、わたしは、〕わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

 

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