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年間第27主日:フィアット(我になれかし)。神の導きにゆだねる生き方を

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年間第27主日(C年)の説教=ルカ17・5~10

2019年10月6日

教皇訪日のテーマは、「すべてのいのちを守るため」

教皇フランシスコが訪日されます。バチカン当局が正式に発表しました。すでに皆さまもご存じのように、三泊四日の日程です。訪日のテーマがあるんですね。今回、日本を訪れるためのテーマは「すべてのいのちを守るため」です。この思いを込めて、東京、長崎、広島を訪問されます。自然豊かな日本にある教会は、日本の殉教者を礎として、聖母マリアの保護をいただきながら、希望の福音を告げ知らせる使命を背負っています。

日本には、いのちと平和の諸問題が山積

今回は特に、今、日本が置かれている状況を考えたとき、いのちと平和に関する諸問題が山積しているといえます。近隣諸国との関係、大規模な天災や原発事故からの復興も課題としてあります。つまり、「人間の生」に関係する取り組みが求められているといえます。単に、標語で終わるのではなく、着実な歩みをさらに前に進める、確かめる機会にしたいものです。

フランシスコ教皇は、日ごろから、わたしたちに振り返りの機会を提供してくれます。少なくともわたしにとってはそう感じています。その中の一つ、それが、教皇が発せられる言葉「神のいつくしみ」です。言わんとする中身が何かといえば、「ゆるし」です。

教皇の「神のいつくしみ」の中身はゆるし

わたしたち自身、負い目をゆるされた時はありがたいし、嬉しくなってきますよね。そして、「よ~し」と気合を入れてやり直す勇気と、改めて挑戦しようとする元気をいただきます。「ゆるし」は、その結果(実り)として、新たな歩みを、機会を提供してくれることでもあるんですね。明らかに、自分の功績ではない何かによって身も心もいい状態になったのです。「身に余るおもてなし」を受けたような気分ではないんでしょうか。

「身に余る気分」というとき、相手方と自分との間にある人間的な優劣など、無関係です。相手が年上であっても、上司であっても、年下であってもどうでもいいのです。兎にも角にも、「ゆるされた」という事実が最も大事なのです。嬉しいことなのです。別の言い方をしますと、相手の方からの全き「恵み」ということができるのではないでしょうか。

イエスは今日の福音で、主人としもべとの関係を用いて、神とわたしたち人間との関係を語ろうとしています。

年間第27主日:しもべが主人に命じられたことを果たすのは当然だ
年間第27主日(C年)の聖書=ルカ17・5~10 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木 に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

主人としもべは、神と人間の関係と同じ

イエスの時代の主人としもべの関係は、まったくもって次元の違う存在であったと考えられています。しもべには、主人と同等の扱いを受ける資格なんて当然のことありません。しもべは主人の、いわば「もの」であって、ひたすら主人に仕えるだけの身分でした。どれだけ一生懸命働き、主人に仕えたとしても、主人と同じ食卓につけるなんてありえないことでした。仮にも、主人と一緒に食卓につくようなことがあるとすれば、それは全く主人からの恵みでしかないのです。

このような関係が、神と人間との関係でもあるのです、とイエスは話されます。神は聖であり、わたしたちは汚れたものです。神は絶対であり、わたしたちは相対的でもろい存在です。神とわたしたちの間には本質的な「差」があります。わたしたちがいくら頑張ってみたとしても、神との交わりすらも持てないのです。

神と人の交わりは神からの一方的な恵み

わたしたちが神との関係を云々することができるのは、ひたすら神からの恵みによるものです。神が、わたしたちの過ちをおゆるしになり、そうすることを望まれているからです。まったく神の恵みなのです。つまり、人間の功徳、功績があったから神との交わりを持つことができるのではなく、一方的に神の恵みなのです。

神は私たちが願う前から準備している

今日の話は、「わたしたちの信仰を増してください」という弟子たちの問いかけ、叫びに対して話された「たとえ話」です。そうなんです。わたしたちがそう願う前に神はすべてを準備してくださっています。わたしたちが引きつけられそうなイエスご自身を見せてくれます。すなわち、イエスから発せられる優しさ、配慮、力強さなど、安心してついていける心がわたしたちに燃え上がってくるのです。安心して信頼し、頼り、願ったことが必ず実現すると信じる、そこに「信仰」が芽生え、さらに育っていきます。それは、日常の生活の一コマ一コマのうちにしかないのです。信仰は徐々にしか育っていかないのです。

神の導きに全てをゆだねる生き方を

12年間出血症を患っていた女性の話、(ルカ8章43~38節)罪深い女といわれた女性の話(ルカ7章36節以下)などを見ても、彼女たちの日常の一コマの中で執り行われた、絶望から希望の世界への変遷でした。まさしく、わたしたちの信じている教えの中心には、「ゆるし」があって、わたしたちにとってのすべての行動の始まりになっているといえます。

マリアにしても「フィアット(我になれかし)」(ルカ1章38節)という言葉で答えて、神の手にご自分をゆだねられたのです。このゆだねによって、マリアの一生は神のものになっていきました。神の導きにゆだねる生き方、それをマリアはわたしたちに見せてくださっています。

その姿を生きようとされている教皇フランシスコ、「イエス様がおゆるしになっているから、わたしもするんです」とわたしたちに励ましのメッセージと生きるすがたを提示なさいます。

わたしたちも、神の恵みによって引き上げてもらいましょう。日々、この叫びを続けましょう。

 

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