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カトリック教会の日曜日の説教

2012年/B年説教=主との出会い

年間第25主日:「ありのまま」で神の前における品位こそ大切

ありのままの自分を隠すことなく、そのあさましさに留まりながら、謙虚さを学ぶ。人間的には品位がないように見えるような状態の中に、実は、神の前における品位があったのでした。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第25主日:神は人間の常識を超えて「あわれみ深い」

今日のたとえ話の雇い主は神です。そこには、人間の常識を超えた神のやさしさ、温かさ、あわれみの深さがあります。「あわれみ」とは、命に対するやさしさ、見て見ぬふりができない心をさしています。
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第25主日:神の思いは、無条件です。「いいわけ」はありません。

神は限りなく「アナログ」派であるような気がします。細かい配慮、ぬくもり、誠実さをいつも大事にお示しになるからです。デジタル化へ進もうとしているわたしたちは、神の思いと人の思いの差異に悩み、痛感している日々ではないでしょうか。
2014年/A年説教=神のたしかさ

ラテラン教会の献堂:五感を使って祈ることで、信仰を養成しましょう

教皇の司教座聖堂であるラテラン教会の献堂の日に、世界中のカトリック教会はキリストの唯一の教会に結ばれて、清いいけにえを捧げ、豊かな救いの恵みが与えられるように、皆の思いを結集して祈るのです。
2014年/A年説教=神のたしかさ

十字架称賛:人類にとって、十字架が「神の力」でありますように!

十字架は、死と地獄に打ち勝たれた主キリストの旗じるしとなり、人びとに永遠の幸福と罪のゆるしをもたらすものとなったのです。全く新しい意味が加えられ、今ではキリスト教の称賛すべきシンボルとなっています。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第24主日:教会共同体は、みなが喜ぶ集いになっているでしょうか?

救いに条件があるとすれば、集められたわたしたちが、一緒に喜ぶ「つもり」があるんですか、ということです。今の教会共同体がみな、「一緒によろこんでいる集い」になっているかどうかです。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第24主日:イエスはユダヤ人のこの世的メシア像を砕いた

ユダヤ人のメシア像は、ローマの支配から人々を解放し、自由と独立を与える存在。イエスは「あなたは神のことではなく、人間の思いにしたがっている」と、彼らのメシア像を砕いてしまいます。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第24主日:信仰生活と日常生活に遊離はない。日常の行いが大事

今日の福音が強調しているのは「ゆるす」ということです。わたしたちの日々の生活は、このゆるしを前提に織りなされているといっても過言ではありません。それだけに大切な日常の心がまえとなります。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第23主日:イエスさまは生きる最高の価値を「神」に置く

現代でも、有名人になれば一目見たいという好奇心がわいてくるものです。この「好奇心」の陰に横たわっていた人々の現世的利益と幸福を願う思いを、イエスさまは徹底的に崩してしまおうとされたのでしょう。
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第23主日:救われるためには、罪は罪として本人が自覚すること

助けを求めている人が近くにいるなら、臆することなく振り向いて共鳴し、その人に何らプラスの変化が起きなかったとしても、勇気を失わずに希望を強くして祈り、手を差し伸べることをやめないことです、と今日のイエスさまは叫んでいます。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第23主日:過ちを犯す人にできる限りの手助けをしなさい

一人たりとも滅びの道を歩むことは神の望みではないのです。救うことが神の意向であり、イエスさまの道なのです。周囲の人にもいさめにいくことを求めます。あきらめることなく、さらに働きかけていくべきでしょう。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第23主日:奇跡には豊かなメッセージが含まれている

その見えるしるしが「足の不自由な人が鹿のように跳ねあがった」喜びであると思います。闇に沈む人々に躍動を与えるイエスさまの姿が奇跡のしるしの裏に隠されています。本物を見つめましょう。
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第22主日:イエスのペトロに対する叱咤は、愛における価値観の違い

天の父の思いを受け入れて「あなたはメシアです」と告白したペトロは祝福してもらいましたが、人の思いに捕らわれたペトロは「サタン」呼ばわりされます。似た体験は「人間の世界」でもあります。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第22主日:人が協力しあうとき必ず誰彼の自己否定を伴う

愛の生き方には必ず苦しみが伴うということです。それをその生き様で示したのが、イエスさまの歩む道だったのです。それが十字架(神の思い)の道でした。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第22主日:形に囚われすぎるな!内からの清めと癒しを

イエスさまが今日指摘なさるのは、「形があれば十分であるというような錯覚にとりつかれないように」ということです。そうしたことにこだわっていた当時の宗教上の指導者たちを手厳しくおとがめになります。狭い心になっていきやすいからです。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第22主日:「生かされている」という謙虚さが平和をもたらす

外見上の見栄ではなく、「自分」がよってもって立っている根拠(神の無償の愛)に気付けばそれだけ、「わたしらしく」それだけ「謙虚に」なっていく自分が見えてきます。誰でも、その瞬間をだれかに生かされ続けていくのです。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第21主日:「狭い戸口から入るように!」は鍛錬の勧めです

イエスさまとつながっている限り、その業は具体的であり、大きな助けとなっていきます。この確信を深めたいですね。「狭い戸口」は特別困難な入り口ではなくなるのでは、・・・。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第21主日:信仰とは納得できなくても己を委ねきる神への信頼

ペトロは「主よ、だれのところにいきましょう。あなたは永遠の命のことば・・・」と。日常同じような人との付き合いをわたしたちは実践しています。神さまとなるとなぜかぎこちなくなります。なぜ?
2012年/B年説教=主との出会い

年間第20主日:「一つになる」ためには自分から合わせる姿勢が必要

「わたしの肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちにいのちはない」(54節)聖体拝領には、イエスさまの十字架、あがないをよく知り、しっかりと受けとめることが求められます。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第13主日:祈りは自己をさらけ出して、膝まづくことから

ヤイロは会堂の司ですから普段は指導者的な活動をしてきたのでしょうが、今日は違います。大事なものへの優先順位があります。地位よりも娘への愛です。命へのこだわりです。