『受難の主日』の聖書と説教はこちら

2012年/B年説教=主との出会い

2012年/B年説教=主との出会い

年間第32主日:「やもめの献金」は生活費を全部入れた

このやもめがだれよりもたくさんの献金を入れたと、イエスさまは弟子たちに断言なさいます。「この人は、乏しい中から自分のもっているものをすべて、生活費を全部入れたからである」
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年間第31主日:最高の掟は愛。互いに「お大切に」 しあうこと

宗教者として力ある指導者であった律法学士は、失われた大切なものを取り戻すために、イエスさまのところに来たような気がしてなりません。「すべての戒めの中で、どの掟が第一ですか?」
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年間第30主日:「あなたが信じる神はどんな方?」と問われたら

年間第30主日(B年)の説教=マルコ10.46~522012年10月28日 わたしたちは毎日、たくさんの方と出会い、いろいろな出来事に遭遇し、知らず知らずのうちに、それらに感化されています。その体験が豊かな人ほど、人間性が豊かであり、平安で...
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年間第17主日:今を満たすパンより永遠の命にいたる糧が大切

パンの奇跡は、「今」人の腹を満たすだけの力があるということを見せるのではなく、「永遠に」命のパンであることを人々に分かってもらいたいとのイエスさまの祈りがありました。
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年間第28主日:一つだけ足りないことは生ぬるさからの脱出

「持っているものをことごとく売り、貧しい人々に施しなさい」(マルコ10.21)。この言葉は、豊かな文明社会で、熱くなく、冷たくなく、なんとなく生きている私たちへの勧告でもあるでしょうか。
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年間第26主日:自己中心に動く人に真の救いはあり得ない

狭い心ではなく、広い心をそなえた人として動く時、イエスさまの意図することが分かり、真の救いに到達できるのです。そこには俗っぽい駆け引きは存在しません。
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年間第25主日:「ありのまま」で神の前における品位こそ大切

ありのままの自分を隠すことなく、そのあさましさに留まりながら、謙虚さを学ぶ。人間的には品位がないように見えるような状態の中に、実は、神の前における品位があったのでした。
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年間第24主日:イエスはユダヤ人のこの世的メシア像を砕いた

ユダヤ人のメシア像は、ローマの支配から人々を解放し、自由と独立を与える存在。イエスは「あなたは神のことではなく、人間の思いにしたがっている」と、彼らのメシア像を砕いてしまいます。
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年間第23主日:奇跡には豊かなメッセージが含まれている

その見えるしるしが「足の不自由な人が鹿のように跳ねあがった」喜びであると思います。闇に沈む人々に躍動を与えるイエスさまの姿が奇跡のしるしの裏に隠されています。本物を見つめましょう。
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年間第22主日:形に囚われすぎるな!内からの清めと癒しを

イエスさまが今日指摘なさるのは、「形があれば十分であるというような錯覚にとりつかれないように」ということです。そうしたことにこだわっていた当時の宗教上の指導者たちを手厳しくおとがめになります。狭い心になっていきやすいからです。
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年間第21主日:信仰とは納得できなくても己を委ねきる神への信頼

ペトロは「主よ、だれのところにいきましょう。あなたは永遠の命のことば・・・」と。日常同じような人との付き合いをわたしたちは実践しています。神さまとなるとなぜかぎこちなくなります。なぜ?
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年間第20主日:「一つになる」ためには自分から合わせる姿勢が必要

「わたしの肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちにいのちはない」(54節)聖体拝領には、イエスさまの十字架、あがないをよく知り、しっかりと受けとめることが求められます。
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年間第13主日:祈りは自己をさらけ出して、膝まづくことから

ヤイロは会堂の司ですから普段は指導者的な活動をしてきたのでしょうが、今日は違います。大事なものへの優先順位があります。地位よりも娘への愛です。命へのこだわりです。
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年間第11主日:人知れず寄り添い働きかける神に委ねる

「人知れず」神はわたしたちに寄り添い、支え、導いてくださるのです。その神に、あなたは委ねることができますか?返事に躊躇している間も、神は働きかけて下さっています。
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年間第7主日:不調の時に神を求める祈りは人間の渇き、普通の姿

神はさりげなくわたしたちを引きよせてくださいます。わたしたち人間に強いることなく、わたしたちを肯定し、高めてくださいます。だから、苦しいときの神頼みも意味が出てきます。
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年間第5主日:「神の幸福」に与るには自分のみじめさを直視する

自分のみじめさを直視する人にとっては、そこから神に向かう祈りが始まり、神との出会いに到達し、平安と安心を受け取ることができるのです。人びとにとっては幸福なのです。
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年間第4主日:法律によらない「権威」はその人となりが醸し出す

イエスさまの「権威ある教えも」、そうした環境から人々に示されたものでした。そこには、ごまかしとか偽りを見いだせなかったのでした。まったく、人々は感動し、感嘆したのです。
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年間第19主日:とんでもない馬鹿げた話を思い巡らすゆとりを

弟子たちは「思いめぐらし」ながら、イエスさまの証人としての成長を遂げていきます。走りっぱなしでは疲れ果てます。急ぎ足ながら、じっくりと歩み続けましょう。
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年間第18主日:群衆が理解しなかった聖体はカトリック教徒の原点

わたしたちの信仰は、イエスさまの論理的な教えの実践にのみあるのではなく、その中心には聖体に対する信仰があることを忘れてはいけないのです。聖体訪問を勧めます。
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年間第3主日:イエスの一言は「はい」か「いいえ」を求める

さがしながら待つ必要はなくなったのです。イエスさまのことばに賭けるか賭けないかです。新しい力を受けるか受けないかです。「はい」といって、イエスさまに賭けたいですね。