年間第5主日:「神の幸福」に与るには自分のみじめさを直視する

年間第5主日(B年)の説教=マルコ1.29~39

2012年2月5日

主との出会い

今日のみことばを読んでいるうちに、昔の「公教要理」を思い出しました。そこで、本棚にその本(「カトリック要理」1972年改訂版)を探し、第二課「創造と主宰」の項を開いてみました。そこには次のような問答がのっていました。

神は何のために天地万物を創造なさいましたか。

神が天地万物を創造なさったのは、ご自分の栄光を現し、特に人びとをご自分の生命と幸福にあずからせるためです、と。

昔も今も、人は幸せな生き方、生活を求めてやまない存在です。そのこと自体はいいとしても、苦労をしないで楽をしたいという思いが優先してしまっては、その幸せ追及も生活を豊かにしてくれるものになるかどうか、・・・。上記の問答の答えの中に、「人を神の幸福にあずからせる」という表現があります。「神の幸福」ってなんなのでしょうかね。

今日の福音を見ますと、たくさんの病んだ人びとがキリストを求めてやまない姿が強調されています。現代ではもっと深刻な事態に陥っているのではないかとさえ思ってしまいます。

といいますのは、人間のみじめな姿を直視できなくなってきたのではないかと感じるときがあるからです。むしろ、みじめな状況からいかにしたら脱出できるか、そのためには時間もお金もいくら費やしても惜しくない思いと動きに走ってしまいます。脱出しようとする動きはごく自然なことです。しかし、どんなに社会が発展し、医学が進歩しても、表面には見えなくても、その裏では底知れない人のみじめな姿、もろさ、弱さを知らされてしまいます。特に司祭の役割上、病床にある方を訪問しますと、病魔に侵され、元気をなくしていくご本人のみならず、看病の世話をしている方がたの切ない悲しみ、苦しみ、辛さなどに出会います。

年間第5主日:イエスはガリラヤ中の会堂に行って宣教し、大勢の人を癒した
年間第5主日(B年)の聖書=マルコ1・29~39 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネもー緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。

それでいて、「神の幸福」にあずからせるとおっしゃいます。つまり、イエスさまにとって、病の癒しは「救い」のしるしであるのです。自分のみじめさを直視する人にとっては、そこから神に向かう祈りが始まり、神との出会いに到達するのです。そして、平安と安心を受け取ることができるのです。このような人が増えていくことが、神にとっては栄光であり、人びとにとっては幸福なのです。救いとつながっているから。

イエスさまの周囲に集まった病人たちは、その実、神の幸福を求めて、そのことを宣言しているといえます。わたしたちも心底から、叫びましょう。

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