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2022年/C年説教=弱き者を救う神

2022年/C年説教=弱き者を救う神

年間第6主日:今、語りかけてくれるイエスの説教を、「わたし」はどう聴くか

今日のイエスの「平地の説教」は、今のわたしたち一人ひとりに呼びかけられている「よろこびの」メッセージです。泣いている「わたし」、嘆き節を言いたくなっている「わたし」、その他、今直面している問題を抱えている「わたし」はどうすればいいのでしょうか。
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年間第5主日:自信がある領域でも謙虚に受け入れたぺトロに学ぶべきこと

ペトロは一つの体験によって、イエスに従っていく選択をします。わたしたちも、コロナ感染対策を体験しながら、「いのち」の有難さを今一度、振り返ってみてはどうでしょう。「わたし」という一人間の存在そのものが、いつも問われているのです。
2022年/C年説教=弱き者を救う神

年間第4主日:「わたしの兄弟、姉妹、母です」と言える間柄を広く築きたい

日常を通して語りかけるイエスにの声に敏感になりましょう。「わたしの兄弟、姉妹、また母です」と言える間柄を、幅広く、深く、高く築きたいものです。
2022年/C年説教=弱き者を救う神

年間第3主日:信仰感覚の新たな芽生えと育ちは、「わたし」の日常にある

はるか二千年前に生活していたイエスの隠された神秘に迫ろうとする心、態度はいつも大切にすべきです。イエスのことばをじっくりと確かめ、味わっていくうちに、圧迫から解放され、罪がもたらす苦痛からの赦しをいただくことができます。
2022年/C年説教=弱き者を救う神

年間第2主日:どんな些細なことでも、神を信頼して願い、委ねること

神はわたしたちの日常のささいなことに対しても、そっとやってきて救ってくださる方です。神はその「時」を見逃すことはないのです。日常の中における、そういう緊迫した「時」を大事にしていきたいものです。
2022年/C年説教=弱き者を救う神

主の洗礼:わたしたちの新しい使命は、普通に生きる中に示されていく

わたしたちは神を必要としています。このことを、人とのかかわり「隣人愛」を通して、神との繋がりを、日常の普通に生きる中で、実感し、さらに高めていけたらいいですね。普段の心身の「訓練」です。
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主の公現:真の救いへのあこがれ、渇きがこの「わたし」にあるのだろうか

救い主としてのイエスのもとへ最初に招かれた人々は、人間の、社会の闇の中に生きている人々であったのです。『神はどん底の闇からの叫びを顧みる』これが今日の福音の訴えではないでしょうか。
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聖家族:人の自らの限界に対処する仕方が、その人の生き方を決める

わたしたちは自分たちの限界にすら気づいていないかもしれない、と思うことがあります。自分一人の楽しみを求めるのではなく、せめて、家族の楽しみを願い、そのために動くことがあれば、限界も見えてくるのかもしれませんね。
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待降節第4主日:挫折の多い自分史の中で、それでも、小さい輝きを大事に

その長さは違っていても、「待つ」「耐える」という点においては、イスラエルの民にも北朝鮮による拉致被害者家族会のみなさんにも、共通する生の体験です。並べて比較すべきではありませんが、暗く、悲しい歴史の中で、一条の光を求め、信じて進むことができるのは、これまた神の力です。
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待降節第3主日:「では、どうすれば良いのか」今の生活の中で考えてみる

今のわたしたちの生活の現場で、生きる充実感を覚えるものは何でしょうか。神は特別なことをして準備をしなさいとは言われません。普段着のままで、その場に望まれる普通のことを今一度、真剣に考えてみましょう。
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待降節第2主日:自らに目覚め、ゆるされたいと願う真剣な自分がいるか?

マイナスやプラスの報道双方に「神からの救いの業のしるし」を見つけていただきたい。わたしたち日本人が大事にしてきたこと、置き去りにしていることは何でしょう。身近なそこにこそ、「神の救いの業の示し」がありはしないでしょうか?
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待降節第1主日:「わたし」の今をしっかり見定め、その後の歩みも着実に

今日の福音書は、わたしたちが生きているこの世が、わたしたちの思い通りにはいかない、人の力ではどうしようもないものであることを示すために、終末を語るイエスの言葉を記しています。「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」