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年間第3主日:信仰感覚の新たな芽生えと育ちは、「わたし」の日常にある

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年間第3主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

年間第3主日(C年)の聖書=ルカ1・1~4、4・14~21

2022年1月23日

海底噴火「津波警報」で揺れた奄美大島の話題から

「未明『すぐ逃げて』」「暗闇おびえる住民」。真夜中にサイレンが鳴り響き、車で徒歩で住民が次々と高台に向かった」。(南日本新聞2022年1月17日朝刊)

16日未明、奄美群島とトカラ列島に津波警報が発表されました。奄美大島では最大1.2メートルの波を観測しています。午前0時15分頃、奄美市名瀬に防災行政無線の放送が流れました。市街地と郊外を結ぶループ橋へ家族と向かった三浦早香さん(42歳)は「着の身着のまま。夜中で余計に怖かった」と不安げでした。

やはり、東日本大震災は距離的にはかなり離れている場所とはいえ、奄美の人・無職島袋孝造さん(48歳)にとって、あの時の津波の恐怖が頭をよぎり焦ったといいます。そして「海底火山による津波どんなものなのか」と身構えたそうです。中には、地震が伴わない津波警報に「当初は誤報かと思った」と話す女性もいたようです。

訓練体験があれば、有事の際にも「周りが見える」

現在、日本の各地で防災訓練、○○訓練というような企画が実施されているような気がしています。地震に対する備え、その他の自然界の脅威を意識した備えが話題になります。その上、その地域ならではの独特な備えが求められることもあります。特に日本は、火山の多い国として、その爆発に備えた訓練は必須です。市街地に近い活火山・桜島を抱えている鹿児島は、毎年、地域挙げての訓練が行われています。

その地域に住まいがある方々にとっては、死活問題ですから一生懸命にその訓練に参加なさっていることでしょう。よく聞かれるのが、「やはり訓練をしていると、動きに流れができる、動きやすくなる」という実感です。やった人にしかわからない感覚なのでしょう。でもこの「感覚」がとても大事になるんでしょうね。いわゆる、「周りが見える」という感覚ではないんでしょうか。ゆとりですよね。やることが分かっているという自信と、自惚れではなく、確信が危険からいのちを護ることにつながっていくのでしょう。

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わたしたちは、たまたま今の時代に生き、日本に生まれ育ち、そして今、わたしは鹿児島の地に立っています。もしわたしたちが二千年前のイエスの時代に生きていたとして、イエスの言葉、行いを見て、聴いて、それらを受け止めることができていたでしょうか。イエスのそれらを目の当たりにした人はたくさんいたはずです。癒していただき、苦しみから解放され、元気をいただき、励ましを受けた人々は老若男女を問わないでしょう。

イエスの時代も、底辺の人の言葉は受容され難かった

しかし、人間の欲というか、我が儘というか、利己主義的な思いが何かとわたしたちの言動に頭をもたげてくるのです。しかも、そこに権力、地位が絡み合ってくると、社会の片隅で密かに生活している人々は全く相手にされなくなってしまいます。それが今の現実の社会現象でしょう。それは、イエスの時代でも同じであったといえます。そこでイエスが朗読した次の言葉が大きな意味を持ちます。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4.18-19)

そして、続けられます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4.21)と。

この個所は、これまでも何回となく読まれ、また、来るべきメシアについて語られてきたことでしょう。そして、誰もが語ることのなかった「自分がメシアである」ということを宣言なさったのです。

とくに社会的に地位のある人々はイエスに反発した

それまでは何も目立つ存在ではなかったイエスが、にわかに人々から注目される存在に変わっていったのです。それだけに、人々の心はイエスを受け止めるために準備されてはいませんでした。したがって、人々は戸惑い、迷ったり、中には反発したり、挙句の果てに否定しようとする者がいたとしても不思議ではなかったでしょう。事実、社会的に地位の高い人々は反対し、否定の側に回ってしまったのでした。自分たちの社会的環境が侵されてしまうからです。つまり、地位とか立場が脅かされていくからです。明らかに利害が絡み合った、利己的な思いからの動きです。

さて、今に生きているわたしたちは、イエスの時代の彼らの動きをいかに考えますか。感じますか。そして、自分ならどうしているかな、と考えられますか。自分の目の前で「わたしが救い主だ」と宣言されても、そのまま信じ、受け入れると言うよりも、「何なの」といいたくなるのが普通でしょうか。

イエスのことばをじっくりと確かめ、味わいたい

それでも、わたしたちは今、イエスを信じて、イエスに属するものとして生きています。わたしたちにも、今日の福音書の冒頭にあるような心をもたなければいけないでしょう。すなわち、「敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べています」ので、一人ひとりそうすべきでしょう。なぜなら、わたしの一生がイエスという存在にかかっているからです。はるか二千年前に生活していたイエスの隠された神秘に迫ろうとする心、態度はいつも大切にされなければいけないことではないでしょうか。

すなわち、イエスの宣言、ことばをじっくりと確かめ、味わっていくうちに、圧迫から解放され、罪がもたらす苦痛からの赦しをいただくことができます。このことを、イエスは今日、宣言なさっておられるのです。「わたし」にイエスの言葉は響いていますか。響いているその時、神のなさる創造の業が進められていくのでしょう。これこそ、「信仰の訓練」ということができるのではないでしょうか。

「わたし」の日々は神の創造の業につながっているのです。日々、赦しがあり、解放があり、新たな創造が始まります。

そして「信仰者の感覚」は日々の積み重ねの上により豊かに育ちます。

 

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