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年間第3主日:神からの呼びだし、それは「賭ける」人生への呼びかけ

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年間第3主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

年間第3主日(B年)の説教=マルコ1・14~20

2021年1月24日

6,434人が犠牲となった阪神大震災から1月17日で26年となりました。各地で追悼行事が営まれています。最大震度7の激震に襲われた兵庫県では、新型コロナウイルスの感染拡大に伴う政府の緊急事態宣言下で追悼行事の中止や縮小が相次いでいます。しかし、遺族らは震災の記憶や教訓の継承を誓い、犠牲者の冥福を祈りました。(読売新聞2021年1月18日朝刊)

阪神大震災から26年、追悼の行事から

「今年は追悼式に行かないから寂しがるかな」。震災で長男の真治さん(当時29歳)を亡くした神戸市北区の吉岡君江さん(78歳)は、地震が起きた時刻に居間の仏壇に手を合わせ、そう話したそうです。

そして、仏壇の脇には、小学校の教諭だった真治さんの形見の品・黒板が置かれています。それは、同僚の皆さんが贈ってくれたのだそうです。その黒板には、真治さんがチョークで書いた「走」の文字が、今では少し薄れてはきていますが、それを見るといつも在りし日の息子さんの姿が目に浮かぶといいます。君江さんにとって、真治さんは自慢の息子だったんですね。

例年だと、仏壇に手を合わせたのち、かつて、息子さん夫婦が住んでいたマンションの跡地や慰霊碑がある神戸市の公園での追悼式などに足を運ばれるのですが、それは、「この日は真治がそこにいる感じがする」からだそうです。だからこそ、「今年は追悼式に行かないから寂しがるかな」の語り掛けの言葉が出るのでしょうね。

また、次のようにもおっしゃっています。「わたしがコロナに感染して死んだら毎日仏壇にお供えをする人もいなくなる。だから長生きしなくちゃと思って」追悼式参加を今年は見送ったそうです。

ままならない事態になったとき、人は…

わたしたちは、いつも平穏無事で喜びのうちに過ごしていきたいと思っていても、ままならないことの連続という体験を幾度となく過ごしてきました。その度に気持ちが落ち込んだり、這い上がろうとしてさらに落ち込んだりの繰り返しが多いのです。

みなさんは、そのような時にどこに助けを求めますか。普通の生活がしたいと願って、助っ人が欲しくないですか。そのことから逃避するのではなく、そのことを越えていきたいのです。そして、それは自分の身近に欲しいですね。

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今日の福音書の話の中では、ヨハネの捕縛の後に、当時の人々が落ち込んでいった絶望感を感じてしまいます。人々が頼りにしていたヨハネが、当時の統治していた残酷なヘロデ王によって抹殺されてしまったのです。そのヘロデは、人々にスキャンダルは与えても、明日への希望、やる気を奮い立たせてくれるものを、彼に求めることは無理です。

ヨハネの時代、民衆は絶望の淵にあった

また、ヨハネが登場する前の人々の置かれていた状態は、無力感に満ちた日々だったのです。絶えず続く戦争に疲れ、貧しさにあえぐ人々の日々がありました。神殿には祭儀を司る祭司はいましたが、習慣に流されて無難に過ごすだけで、宗教的な指導力を期待することができません。ファリサイ派の人々は、熱心に人々に説きますが、人々を引き寄せ、心からの情熱を燃え上がらせる魅力がありません。そこに、ヨハネが登場し、罪のゆるしを得させるために「悔い改め」の洗礼を宣べ伝えたのです。みなはヨハネのもとに集まって来ました。そのヨハネが捕らえられたのです。せっかく前向きになっていた彼らの心は、以前にもまして、大きな失望感を覚えてしまったのではないでしょうか。

そうした人々の背景を受け止めつつ、イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と登場なさるのです。人々の心が希望から遠く離れてしまったと思われるその時、イエスは「時が満ちた」といわれるのです。悲しみ、苦しみのどん底にいるその時に「救いの時が満ちた」とイエスは人々に告げるのです。

支えが全くないとき、人は神に近づく?

みなさんは体験がありませんか。いつもは元気はつらつと過ごしていたのに、何かと病の期間が長くなったり、精神的に落ち込んでしまう時が長くなってしまったとき、どこかにそのはけ口を求めますでしょう?どこにその逃げ口を求めますか。わたしたちは、人間的いっさいの支えをなくしてしまったときは、神のそばに近づいていくものではないのかな、・・。そのことを意識するかしないかといえば、意識しないことが多いのでしょうが、逆な言い方をしますと、その時が、神がわたしたちの中で、一番働きやすい時なのでしょう。

弟子たちが網と船を捨ててイエスについていったという今日の福音書の話の意味も、ここにあるのではないでしょうか。つまり、「賭ける」人生、イエス(神)に賭けて生きていく道を探求しなさい、という呼びかけでもあるということです。わたしたちの洗礼の秘跡は、まさに、その呼びかけに対する「わたし」の応えです。

最愛の息子さんを亡くされた吉岡君江さんにとって、今こそ、息子さんの前で素直なご自分を意識されているのではないかと感じてしまいました。そして「祈る心」が刺激されていくものなのだなと。これが「わたし」の日常の生活のリズムの中に取り入れられてくると嬉しい限りです。苦しい時、嫌だなと感じるときこそチャンスなのですね。

手を合わせて祈るときは、自分が一番素直になれるときであり、それは、神が「わたし」の中で、一番働きやすい時でもあるということです。

 

 

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