『年間第3主日』の聖書と説教はこちら

2024年/B年の説教=あなたの言葉は「わたし」の道の光

2024年/B年の説教=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第6主日:イエスの癒し、救いは、苦しさの中にこそ発見できる

人に相手にされないことほど、さびしいことはありません。体験した人、または今体験している人、いるのではないでしょうか。辛いけど、その寂しさ、苦しさにしっかりと向き合ってみましょう。見続けてみましょう。そこから道が開けます。
2024年/B年の説教=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第5主日:神から出てきたイエスの使命は、「宣教する」こと。その中で、・・

イエスが来たのは、「宣教する」ためであって、奇跡は手段にすぎません。使命を遂行する中で、新たに力を得、幾多の困難を乗り越えて、救いの実現を成し遂げていかれました。わたしたちも「宣教する」中で力をいただきましょう多くの人々に、み言葉を告げ知らせる使命を受け継いでいます。
2024年/B年の説教=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第4主日:「汚れた霊の追放」は、イエスの「権威ある教え」の具体例

イエスが教える「神の国の福音」は、イエスその人のうちに実現していて、イエスという存在がすでに「教え」だった。イエスは悪霊の支配を終わらせ、神の国の支配を告げる「神の聖者」。それゆえに、人々はイエスの中に、神の子の神秘を感じ取っていったのです。
2024年/B年の説教=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第3主日:漁師たちはなぜ、網や家族を捨ててイエスに従ったのか?

イエスからの呼び出し・召命はとりもなおさず「わたし」の生き方の転換です。その本質となるのが神の介入であるとなれば、網や家族を捨てるのが重要ではなく、何かを捨てたくなるほどに神に「見られてしまい、呼ばれた」ということが肝心なことになります。
2024年/B年の説教=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第2主日:主のみ言葉の伝播は、「わたしの居場所」への招待状

今のわたしたちは、後世に語り継いでいく役割を負っています。「自分の居場所を見つけたもの」として、喜びの分かち合いをしていくのです。多くの人に真の居場所を見つけてほしいからです。自信をもって、力強く、でも、謙虚にお招きしましょう。
2024年/B年の説教=あなたの言葉は「わたし」の道の光

主の公現:他者に気配りするように、神からの働きかけに気を配ってみたい

神の導きは不思議なものです。博士たちの問いを聞いたときに、ヘロデは怒るどころか、むしろその場所を教えて送り出すのです。彼らと一緒に行って、イエスを亡き者にすることも簡単にできたはずなのに。これが神の救いのなさり方です。
2024年/B年の説教=あなたの言葉は「わたし」の道の光

聖家族:「子は神の賜物」とみることができれば、その喜びは大きく広がる

イエスの人となりは、マリアとヨセフに負うところ大です。やさしさ、温かな配慮する心、微笑み等、すべてが親から引き継がれているものでしょう。子どもにとっては、親の、大人の一挙手一投足が全て、生きるための「生き字引」であり、エネルギーなのです。
2024年/B年の説教=あなたの言葉は「わたし」の道の光

待降節第4主日:世界の救いと平和のために、「わたし」は神とともにいる

「恵み」というのは、どのようなものなんでしょう。それは「主があなたと共におられる」ことなのです。恵みというのが「もの」ではなく、「かかわり」方に重きが置かれていることに注目したいものです。
2024年/B年の説教=あなたの言葉は「わたし」の道の光

待降節第3主日:イエスの証しは、日々「わたし」の身近なところで

わたしたちの社会では、何が証しされているのか、その中身を自分の利害関係の中で判断し、行動してはいませんか。どうしても弱さを身に帯びている存在だからでしょうか。まずは、それを克服したいものです。
2024年/B年の説教=あなたの言葉は「わたし」の道の光

待降節第2主日:『悔い改め』は生きる姿勢の転換。その難題を可能にするには

日常わたしたちが言う「悔い改め」とは何を意味しているのでしょう。「人としてあるべき道」へ戻ることでしょうか。だとすれば、そもそも「あるべき道」とは何なんでしょうか。
2024年/B年の説教=あなたの言葉は「わたし」の道の光

B年最初の説教は、11/30(木)17:00公開予定です

新しい典礼歴・B年が始まります。12月3日(待降節第1主日)B年最初の説教は、11月30日(木)17:00公開予定で準備しています。公開まで、今しばらくお待ち願います。
2024年/B年の説教=あなたの言葉は「わたし」の道の光

待降節第1主日:受け継がれた信仰の遺産、希望を、今に、生かし続けるには

クリスマスの祭りが意味しているメインは「救いの時がやってくる」ということです。救いの時がやってくるという確信は、旧約の人々の心に深く焼きついていました。どんなに無視されても、希望を失くしそうになっても、その確信は揺らぐことがなかったのです。