カトリック典礼暦年2013年(2012年11月~2013年11月)は、主にルカ福音書が朗読されるC年。Fr.YASUさんの今週の説教の年間テーマは「寄り添うイエス」です。
待降節第3主日:「救われるためには、どんなことでもします」と言う覚悟
それぞれの置かれた環境に応じて、やさしさ、思いやり、いたわりあいを勧めています。一言でいえば、実生活の中での隣人愛の実践、これがイエスさまと出会う最高の準備であると今日の福音は伝えています。
復活節第4主日:神に大事にされている「自分」を自覚しましょう
イエスさまは、わたしたちに「大事にされている自分」に気付くように促されます。神に大事にされている「自分」です。父と子が一つであるのは、その間にわたしたち「人間」がいるのです。それほどにわたしたちは大事にされているのです。
復活節第3主日:再出発にはゆるしを願う前向きな心が大事
ペトロは悲しくなりながらも、答えます。「あなたはすべてをご存知です」と。イエスさまに直接「ごめんなさい」と言えなかったペトロにとって、このことばの中に、イエスさまへの謝罪の心を感じます。そして、ペトロは新たに使徒としての道に招き返されました。新たな「船出」です。
四旬節第1主日:まず神の国とそのみ旨を行う生活を求めること
だからと言って、働かなくてもいいということではありません。食べ物を得るためだけの働きではなく、生きる範囲、幅は広いものであるということでしょう。わたしが生きるのは、わたしと、近くでは、わたしの周りにいる人のために役立つことなのです。
四旬節第2主日:祈りができないときは祈祷書を使う。神の声に耳を傾ける
日常で、毎日の祈りができない瞬間、時、日があります。学生時代は、そのようなときは祈祷書を使いなさいと言われたものです。日常を述べる、語ることばかりではなく、神に耳を傾けることも大事ではないかということです。
四旬節第3主日:神はそばにいる。不意の不幸にも「信じて生きる」訓練を
神の「沈黙」は何を意味するのか。わたしたち一人ひとりに「回心」のチャンスを与えようとしての恵みの時なのです。パウロは言います。「だれがキリストの愛から、わたしたちを引き離すことができようか」。
四旬節第5主日:人の原点は神に愛され、ゆるされ続けていることです
人は人を「罪人」であると判定できません。同じことをしでかす弱さを持ち合わせている人間であるとわかっていても、神はゆるし続けるのです。ゆるされ、愛され続けている「わたし」を実感したいですね。
四旬節第4主日:「名詞」の愛ではなく、動詞で「愛」を実行しましょう
愛は名詞ではなく、動詞なのです。つまり、口先だけでいう名詞の愛ではなく、おなかをすかしているわが子に対して、そっと手渡すコッペパン一つで親の愛が伝わります。
年間第20主日:評価を気にせず、粛々と自分が歩むべき道を進む
わたしたちは誤解を解こうともがきますが、イエスさまは粛々とご自分が歩むべき道のりを進みます。ここに、イエスさまの卓越さと優しさがあります。わたしたちには、いつも、事が終わってから気付くのです。イエスさまは人の評価を気にしません。
年間第19主日:イエスが弟子たちに求めた生き方は、「神がすべて!」
イエスの弟子の生き方は、「神がすべてである」ということです。一方、私たちは「お金がすべてであり、地位、高学歴が第一である」という社会の流れを断ち切ることが、まず大事な作業になるのでしょうか。
年間第2主日:カナの婚宴の奇跡に学ぶことは、懸命の祈りと願いは叶う
神は救ってくださるお方。ゆめ忘れてはいけない大事なことです。つまり、祈り、願いの内容は神にゆだねたらいいのです。必死に祈り願ったことがあったでしょうか!?
主の洗礼:民衆とともに洗礼を受けられたのは、イエスの思いの表われ
ルカは民衆の受洗とイエスさまの受洗を並記しています。ヒューマニストとしてのイエスさまの姿は興味ある内容ですが、大事なのはイエスさまを通してなされた神のみ業であるということです。
主の公現は闇に差し込む光!私たちもひかりへの新たな旅立ちが必要です
社会の片隅で生きることを余儀なくされ、闇の中に住んでいる人たちに「光」が差し込んだのでした。それが、「主の公現」の祝日の意味ですし、わたしたちへの温かいメッセージなのです。
待降節第4主日:マリアの真価は、主のことばは必ず実現すると信じたこと
イスラエルの民族の生きざまは、「試し」の連続で、辛い出来事の連続でもありました。その中にあって、「必ず実現する」と信じ、その先方を走られたのがマリアさまご自身でありました。
聖家族に倣う「家族の間隔」。親離れ、子離れについて思い巡らす
わたしたち家族のモデルがここにあるような気がします。新年を前に、過ぎる今年を感謝し、来る年に向けて小さな決意を添えて、新たな力と恵みを願いましょう。
待降節第2主日:回心の必要に気付くのも神のいつくしみ
神はやはり生きておられるのです。神のいつくしみが、苦悩のどん底でゆるされなければならない「自分」たちであることに気付き始めさせたのでした。
待降節第1主日:ありのままの自分と現実を見つめること
救いに逆行するものにのみこまれないように目をさましていなさい。そのためには、ありのままの自分、現実をしっかりと見つめること。必ず神の力強い救いがわたしたちを招いています。
年間第29主日:絶望の中にありながらも待ち続け、希望を失くさないこと
わたしたちは、普通、落ち込んだりしますと、一般的に「後ろ向き」になってしまいます。しかし、だからといって落ち込んだままかというと、そうで もないんですね。
王であるキリスト:神は倦むことなく、わたしたちをゆるして下さいます
王であるイエスさまの権威をもって、わたしたちは救いへの機会をもらい続けているのです。真の王は、威張るのではなく、まさに、じっと「待ってくださる」方なのです。
年間第32主日:他者に開かれた生き方が、人間本来のあり方です
「生きている者の神」との交わりは、「死」によって、途切れることはないのです。だからこそ、今、この世で信仰していることの大きな意味があります。そして、天国へのあこがれも強くなります。