カトリック典礼暦年2014年(2013年11月~2014年11月)は、主にマタイ福音書が朗読されるA年。Fr.YASUさんの今週の説教の年間テーマは「神のたしかさ」です。
年間第17主日:得るために支払う準備と努力に、喜びを感じていますか?
イエスさまは得た「物」に比重を置いているのではなく、「支払いをする」ために努力してきたその生きざまに、重きを置いているのではないでしょうか。
年間第28主日:救われたことへの感謝の思いがあるかが問われている
いつでも招待されることを思い、そのことへの感謝の心がある人と、そうでない人との違いが「礼服」という姿で表現されている、ということです。つまり、救われる(宴席につく)ための資格が云々されているのではありません。
主の公現:三人の博士、実はマギ。底辺の人がメシアの誕生に招かれた意味は?
マギは星の光に引き寄せられて、イエスさまを礼拝し、心の安らぎを得て、傷ついた心をほぐしてもらったのでした。そして新たな生きる希望を抱き、委ねる生き方に踏み出したのでした。
四旬節第5主日:イエスに「自分の殻から出て来なさい」と、招かれている
四旬節は回心、つまり、自己中心からの転回が求められ、新たな自己発見が叫ばれています。ラザロが出ていくために、墓の石が取りのけられました。同じように、わたしたちが出ていくために、邪魔になっているものはないでしょうか。
復活節第2主日:恐れるな。わたしは死んだが、いつまでも生きている
この世で、どんなに強い人の悪意に押しつぶされそうになっても、それで終わりではないことを証明してくれたのが、今日のトマスへのご出現でした。「見ないで信じる人は幸い」の世界に生きているのが、今のわたしたちです。主よ、信仰を強めてください。
復活節第4主日:神の声を聞き分けることができる時を大事に待ちましょう
イエスさまとマリアの出会いの実りは「マリア」「ラボニ」という応答の中にすべてが包含されています。つまり、マリアはイエスさまの呼びかけを「聞き分ける」ことができたのでした。そして、信じて最期まで従っていったのでした。
復活節第3主日:ミサでパンを裂くとき、イエスさまがそこにおられます
今の日々のミサはどうでしょうか。ミサを捧げるわたしたち一人ひとりが喜んでいるか、希望に輝いているのか、エマオの弟子たちと同じく「悲しげで、暗い」顔をしていないか。二人の目が遮られていたのは、「主の受難と復活」を理解していなかった結果でした。
四旬節第1主日:神に背を向けるか神に生きるか、自分の信仰を確かめよう
「人はパンだけで生きるものではない」「「あなたの神である主を試してはいけない」「神なる主を礼拝し、ただ神にだけ仕えねばならない」というイエスさまの回答は、徹底したご自分の心の中を宣言されたものです。
四旬節第2主日:イエスの問いかけ、矛盾に見えることを受けますか?
イエスは神本来の自分の姿を「捨て」て、わたしたちの人生にご自分の人生をあわせられたのです。そして、弟子たちにその心構えをお示しになったのでした。それは、今のわたしたちに対しても同じことが言えます。
四旬節第3主日:絶望的な時であっても、希望をもち続けることが大切
今に生きるわたしたちにとっても、「救われた」「元気をいただいた」等、そのように感じた出会い、人、出来事があることでしょう。それらをしっかりと記憶しておくことでしょうね。それによって、次のステップへと飛躍できます。主よ、今日出会う人と、お互いに高め合うかかわりでありますように、・・・。
四旬節第4主日:「あの過去のせいだ」と、自らの道を塞いではなりません
マイナスイメージだけが膨らんでいく経験がおありでしょうか。「やはりだめだ」ではなく、「また新しいスタートだ」と考えましょう。終わりは神が準備してくれます。自分で作る必要はないのです。神のわざ、はからいに気づくために。
主の洗礼:イエスさまは、まさに「われわれと共におられる神」
主の洗礼の祝日が年明けの今日、祝われるということは洗礼の時の、あの神のことばを意識するいい機会をいただいたといえます。
待降節第4主日:ヨゼフに倣いたい、戸惑いつつも静かに前に進む大切さ
今の生活の中で戸惑いがあるのであれば、それでも前に進みながら希望し続ける時、ヨゼフの「戸惑い」が安心感に変わったように、わたしたちの中でも実現します。今は待降節なのです。
待降節第3主日:子どもの頃「よろこびの主日」と言われていました
今日のみことばは、ヨハネを通して真の喜びへの神からの招きです。「よろこびおどれ」というパウロの叫びも、イエスさまの癒しも、人間のもろさの中で、人間をみたしてくれる唯一の神の支えです。
聖家族:イエス、マリア、ヨゼフはすべての家族の原型であり、模範です
「聖なる家族」は一体どのような食卓を囲んでいたのでしょうか。一人ひとりの素朴さ、静けさ、お互いの信頼感、そして神への信頼心。これら一つひとつが家族をつなぎ、輪となり、和をつくり上げていったのです。
年間第29主日:わたしたちの身の回りは、神からのもので一杯です。
つまり、存在そのものが神からのものであるならば、わたしたちが持っているものすべては、神によらずになったものはないということができます。したがって、神からの恵みによって自分が「ある」ということに気付きなさい、ということが「神に返せ」の中身でしょう。
復活の主日:マグダラのマリアの関心が「遺体」だったのも無理からぬこと
彼女にとって、イエスさまは、その人生を転換できる大きな契機をくださった方です。それこそ彼女にとっては「かけがえのない」方でした。だから、せめてご遺体を求めたのでした。イエスさまを思い出し、自分を律していくための力となると思ったのでしょう。
待降節第2主日:罪とは、神と人間との間に生じた「ずれ」のことです。
ヨハネは、人々を神へと向けさせようとして「悔い改めにふさわしい実」を結ぶように、人々を導きます。そのために荒れ野で人々を待ちます。違った世界に生きてきたヨハネと人々。その彼らが、共通した「荒れ野」で出会うのです。
待降節第1主日:神の救いの確かさを待ち続ける術を学びましょう。
「救いは」日常の生活の中で実現していきます。ノアの話でもそうです。「人の子が来る場合」でもそうです。ただ、目を覚まして、神のしもべとして忠実に従う人が救われるのです。
王であるキリスト:神の前に価値があるのは「愛」だけである
毎日の日常的な、卑近な生の営みの中で行われるごく自然な「配慮」から出てくる業です。「渇いている人に水を差しだし、苦しんでいる人に慰めの言葉を語り、ほほ笑みを見せる」ことでいいのです。