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カトリック教会の日曜日の説教

2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第27主日:「神の子」という自分の名前に誇りがありますか?

日本人は律義であると言われます。特に、人の名前に関してはとても敏感な反応を示すようです。ところが、名前は名前でも、日常、わたしたち自身、あまり気にしないで使っている名前があるようです。「日本」国名は「にっぽん」ですか、「にほん」でしょうか。実際にはあまり気にしてないですよね。どのような使い分けをしているのか、自分でもはっきりしませんが。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第26主日:周囲に「ラザロ」はいませんか。ラザロに出会った時どうしますか?

教会は「今」を大事にするように言います。それは、今の生き方のその先に、来るべき世の生き方への繋がりがあるからです。したがって、この世でどのように生きるかがいつも問われ続けます。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第25主日:人が追い詰められたときの着眼点は「抜け目なさ」です

イエスさまの話に留まりながら、じっくりとみことばを読み込んでいきますと、イエスさまは不正な管理人のやったことの真似をしなさい、と言うよりは、彼の「抜け目なさ」をほめ、不正な富で友をつくりなさいと言われています。「不正な富」とは不当なやり方で得た富というよりも、天の国に対して「この世の富」の意味合いと考えた方がいいでしょう。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第24主日:いつくしみの神は「落伍者」がでることを望まない。

今日の福音に登場する話、迷った子羊、銀貨を失った婦人、放蕩息子の話に共通することといえば、「いつくしみの神」が描かれていることです。失ったものを捜しあてた時の喜びは何とも言えない安堵感を与えてくれます。イエスさまもそのような温かい心でわたしたちに迫ってこられるのです。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第23主日:現世的なことに囚われ、確かな価値を見失わないように!

今日のイエスさまの弟子たるもののきびしい条件は、現世的な利益と安寧を求める時代背景の中で語られたものです。わたしたちも現世的な価値観にとらわれ、目先の幸せや利益に目がくらむことはよくあります。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第22主日:すべてを先に、神が無償で配慮して下さっています

オリンピックに参加できた選手、観衆の皆さんは、自分の能力と謙虚さと新しい自分を発見する尊い場をいただいたのではないでしょうか。「自らへりくだる者」、自分を発見したいものです。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第21主日:子どもはイエスさまに出会うための条件を自ら備えている

「狭い戸口」と「幼子」はつながっているような気がします。子どもは未熟ですから自分を任せます。他者からの手助けを拒みません。さらに、そこにいることで人々に元気とやすらぎを与えてくれます。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第20主日:イエスさまの厳しいことば「嘆き節」をやめてもらうには

民衆のイエスさま理解は、どこか地上的過ぎて恣意的なにおいがするものでした。イエスさまを誤解してしまったのです。その結果、即物的な救い、安寧を期待してしまい、誰ひとりイエスさまとともに燃えあがる人が出なかったのです。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第19主日:神が付加価値を与えて下さる。神に希望をおきなさい。

日常性の中で、いつ、どのようなことで神の関与を感じているでしょうか。神がすべてであるという実感をどのように表現しているのでしょう。それができた時に、確実にイエスさまの、福音の証人となることができるのでしょう。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第18主日:人生の最終目的は、神との直接な出会い(天国)です

天国は、この世の延長上にあります。わたしたち一人ひとりの人生は、隣人(他者)との出会いを通して、神との出会いに向けられています。だから、今の生活で、日々の小さな積み上げを大事にしたいですね。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第17主日:祈る人は「負け組」だと思ったら、それは大きな誤解です

「主の祈り」は神の動きを知らせ、その豊かな愛に自分をゆだねるように、その道を開かせてくれます。自分の限界に目覚め、他者(神)への寄りかかりを尊い、大事なものにしていけますように。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第16主日:神が一番喜ぶことは、愛にあふれたおもてなしです

マルタに愛がなかったということではなく、その愛の心で、マリアの見えない心の世界を、みつめてあげることではなかったのかということでしょうか。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第15主日:お互いが安心でき、やすらぎを得られる関わりを広げたい

日頃は人を感動させる言葉を発していても、愛情がこもっていないと、その感動は打ち上げ花火で終わってしまいます。水の波紋のように広く、あざやかに繋がっていかないのです。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第14主日:権威をいただいた者の誘惑は、権威の乱用です

派遣される一人ひとりが、人生のさまざまな労苦、重荷を背負いきれないでいる人に共感し、人間が持っている惨めさ、悲惨さに向き合う姿勢を学ぶためにいただく「権威」なのです。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第13主日:選考・派遣された者として、イエスの道を発見しよう

イエスさまも、天のおん父のみ旨を果たすために「派遣」されたのでした。人間の救いのためです。その任務を拒めば、全人類はいつまでも闇の中にとどまり、とざされたままで放置されてしまいます。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第11主日:神の前に「正直になっている自分」がありますか?

イエスさまのわたしたちへの要求はこれだけです。「多くゆるされたから、多く愛していく」本来の生き方を、わたしたちの人生としていきたいものです。
2017年/A年説教=神のふところ

四旬節第2主日:イエスは今日も呼びかけている!あなたは真のわたしの弟子ですか?

「わたし」の日常で、あっと驚く、励まされる「暴露出会い」はありませんかね。あるとすれば、イエスさまの招きです。ご自分の歩まれた道に、わたしたちが自分の人生を合わせることを求められるイエスさまが、今日、呼びかけられます。
2017年/A年説教=神のふところ

四旬節第1主日:「荒れ野」で誘惑に出会ったとき、神に向かうか、背を向けるか?

今の自分の信仰者としての歩みを確認する大ヒントが、今日の福音のイエスさまの姿に込められています。つまり、神に向いているのか、その反対を向いているのか、どうなんでしょうか。イエスが受けられた三つの誘惑をとおして振り返ってみましょう。
2017年/A年説教=神のふところ

年間第8主日:思い煩いは恵みの浪費!天の父への信頼を深めることが大事

誰にでも、どのような資産家、立派な地位にある人にも、背負いきれない、自分の力を超える現実があます。どうしようもない人間の限界です。だから、イエスさまの招きがあります。「天の父は、あなたたちにそれらがみな必要なことを知っておられる」のですから、天のおん父への信頼をより深めましょう。
カトリック教会の日曜日の説教

司祭が魂をこめる日曜日の説教は、時空を超えて多くの人に届けたい

仕事や家庭の環境など諸々の事情で日曜日に教会に行くことができない方々を意識して、せめて日曜日の説教に触れてもらいたいと考えて作ったのがこのコーナーの始まりだった。