「カトリック教会の日曜日の説教」の記事一覧

待降節第2主日:洗礼者ヨハネの宣教は、今の時代に合った信仰の土台を築くよう促しています

2017年/A年説教=神のふところ
2017年説教の年間テーマ「神のふところ」

通常「待つ」ということは、何もしないで待つのではなく、期待しながら、ワクワク感をもって待つことが多いのではないでしょうか。だから待てるのです。「天の国が近づいた」とヨハネは叫びます。つまり「救い主が来られる」と言われ続けながらも、なかなか実現しない歴史を体験してきたイスラエルの人びと。しかし、それでも彼らは絶望しないのです。

待降節第1主日:救いは神からの一方的な業!とはいえ、人間側の備えが必要です。

2017年/A年説教=神のふところ
2017年説教の年間テーマ「神のふところ」

待降節は何を待ち、準備するのでしょうか。今日のみ言葉は「神はすべての民を永遠の平和に招かれる」「救いは近づいている」「目を覚まして用意していなさい」と、わたしたちに語りかけます。つまり、やがて訪れる「救いの時」を語っています。それがいつ来るのか、誰もはかり知ることはできません。

王であるキリスト:神のいつくしみはずっと続きます。救いの輪に取り込んでもらいましょう

2016年/C年説教=神のぬくもり
2016年Fr.YASUアイキャッチ

罪の状態から抜けきれなくて生涯を終えようとしている盗賊たちと、罪を一度も犯すことのなかったイエスさまとの出会い。正反対の生き方をしてきた双方の出会い。この情景の中で言えることは、今のわたしたちに大きな望みを抱かせてくれます。

年間第33主日:現実の生活の中で、神の保護を実感し、苦しみを超えていけますように!

2016年/C年説教=神のぬくもり
2016年Fr.YASUアイキャッチ

信仰者であるわたしたちにも、信仰者であるがゆえにイエスさまの歩いた道を生きることになるのです、と宣言なさいます。しかし、「あなたがたの頭から髪の毛一本失われることはない」と、わたしたちへの保護も約束なさいます。

年間第31主日:ザアカイは一夜で変わった!琴線に触れる言動には大きな力がある。

2016年/C年説教=神のぬくもり
2016年Fr.YASUアイキャッチ

人の心の琴線に触れることの体験は、その人を新たな自分に気付かせる力を持っています。今日のザアカイはまさにそうした状況にあるのでしょう。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します」と、ザアカイに決断させるほどのエネルギーです。

年間第28主日:イエスは重い皮膚病患者の「かぎりの叫び」を聞き届けた

2016年/C年説教=神のぬくもり
2016年Fr.YASUアイキャッチ

重い皮膚病で人からは敬遠されて相手にされない中で生きざるを得ない人が民衆の前に出ることが、いかに勇気のいることか。声をかぎりに遠くからイエスさまに呼びかけるしかできなかったのです。イエスさまはその人の「かぎりの叫び」を聞かれます。

年間第27主日:「神の子」という自分の名前に誇りがありますか?

2016年/C年説教=神のぬくもり
2016年Fr.YASUアイキャッチ

日本人は律義であると言われます。特に、人の名前に関してはとても敏感な反応を示すようです。ところが、名前は名前でも、日常、わたしたち自身、あまり気にしないで使っている名前があるようです。「日本」国名は「にっぽん」ですか、「にほん」でしょうか。実際にはあまり気にしてないですよね。どのような使い分けをしているのか、自分でもはっきりしませんが。

年間第25主日:人が追い詰められたときの着眼点は「抜け目なさ」です

2016年/C年説教=神のぬくもり
2016年Fr.YASUアイキャッチ

イエスさまの話に留まりながら、じっくりとみことばを読み込んでいきますと、イエスさまは不正な管理人のやったことの真似をしなさい、と言うよりは、彼の「抜け目なさ」をほめ、不正な富で友をつくりなさいと言われています。「不正な富」とは不当なやり方で得た富というよりも、天の国に対して「この世の富」の意味合いと考えた方がいいでしょう。

年間第24主日:いつくしみの神は「落伍者」がでることを望まない。

2016年/C年説教=神のぬくもり
2016年Fr.YASUアイキャッチ

今日の福音に登場する話、迷った子羊、銀貨を失った婦人、放蕩息子の話に共通することといえば、「いつくしみの神」が描かれていることです。失ったものを捜しあてた時の喜びは何とも言えない安堵感を与えてくれます。イエスさまもそのような温かい心でわたしたちに迫ってこられるのです。

年間第20主日:イエスさまの厳しいことば「嘆き節」をやめてもらうには

2016年/C年説教=神のぬくもり
2016年Fr.YASUアイキャッチ

民衆のイエスさま理解は、どこか地上的過ぎて恣意的なにおいがするものでした。イエスさまを誤解してしまったのです。その結果、即物的な救い、安寧を期待してしまい、誰ひとりイエスさまとともに燃えあがる人が出なかったのです。

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