カトリック教会の日曜日のミサで朗読される三番目の聖書(福音書)を毎週木曜日の夕方更新。2017年からは第1朗読、第2朗読の掲載も始めました。ページでは主日(日曜日のこと)ごとにそれぞれの福音書に基づいた説教へのリンクもあります。また3年周期のA年、B年、C年を簡単に閲覧できるように工夫しています。
年間第2主日:神はどんなお方?「わたし」に近い、それとも遠いお方?
人間は、自らが何も知らないままに危機に遭遇している時がありますが、神はそこにそっと来て救ってくれるお方なのです。神はそんなお方なのです。
主の洗礼:「わたし」の受洗の覚悟は何、それは今どこに、・・・
きょうはイエスの受洗記念の祝日です。受洗する必要はイエスにはないのですが、あえて民衆の中に入っていかれます。救いへの道を民衆とともに歩むためです。「民衆はメシアを待ち望んでいて・・・」で始まるきょうの福音。
主の公現:神の「秘められた計画」があらわになる
今日の福音の占星術の学者たちは、ユダヤのベツレヘムに生まれたイエスを礼拝するために星に導かれてエルサレムにやってくるのです。この東方の学者たちはイエスを礼拝しましたが、このことの中に、異邦人も神からの救いから除外されていないことが明らかにされています。
聖家族:「分からない」ときは「心に納め」、相手に寄り添うこと
「母はこれらのことをすべて心に納めていた。」この対処のあり方は、歴史の中で働かれる神への信頼があって初めて可能な態度です。日常わたしたちが「分からない」とき、そのような対処の仕方を心がけているでしょうか。
待降節第4主日:信仰は育ち、豊かに鍛えられていきます。歴史の中で・・・
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方」マリアが、わたしたち信仰者のみほんであるということを、聖霊はエリサベトを通して教えています。このマリアの信仰はイスラエルが暗闇の試みの中で鍛えられたまことの信仰です。歴史の中で信仰は鍛えられるのです。
待降節第3主日:救い主に出会う最高の準備は日常生活での「隣人愛」実践
きょうの福音は、救い主との出会いのために、もっともすばらしい心がまえ、準備するものは隣人愛の実践であるということを勧めています。それも、それぞれが生きている具体的な場においてのやさしさ、思いやり、いたわりが勧められています。
待降節第2主日:救い主を迎える準備は、どこでも、誰にでも開かれている
神の限りないあわれみ、いつくしみは罪の赦しを願う人々に向かって開かれています。クリスマスを迎える心とは、ゆるしが必要な人間であるという自覚ではないでしょうか。社会のいろいろな動き、ブームに巻き込まれながらも、自らの居場所を確認しておきたいものです。
待降節第1主日:飢え乾く心、そして調和の取れた心へ
きょうから待降節⇒イエスのご降誕を待つ期間。つまり救いを待ち望み、そのために一人ひとりの心を準備する期間です。今一度自らの人生のありのままを、改めて見つめてみましょう。そして、本人も気づいていない心からの叫び、乾く心を、そこに見出していければ・・・。
王であるキリスト:イエスの言動は、もっぱら人間の救いのために⇒利他の心
イエスの言動は、もっぱら人間の救いのために意図されたものでした。敢えて言うならば、「利他の心」いや、それ以上だったのです。今の「わたし」はどうでしょう。イエス降誕を前にしっかりと自分の「ありのまま」を神の前に差し出してみましょう。
年間第33主日:そのとき、選り分けられて「あなたがた」と呼ばれるために
「人々」から「あなたがた」を分けるものは、はたして何なのでしょう。わたしたちは、一人ひとり、それに答えることができているからこそ、今があるのです。 終わりに、人の子から「あなたがた」と呼ばれるために、・・。
年間第32主日:環境の変化の真ん中に、神のみ心を見る人、見ない人とは
「やもめ」も「いじめられている人」も、自らの人生の表にすら立つことができない人たちです。立ちたくてもそうさせてもらえない、なんとも歯がゆい歩みを強いられています。それは、人間の視点に立った時はそうですが、神の視点に立つと違うよ、ということを今日の福音はわたしたちに勧めています。
年間第31主日:「畏れ」と「恐れ」の境界線は?その間を漂流している「わたし」
「恐れ」を抱くとき、人は神から後ずさりし、もの(奉納物)にこだわろうとします。しかし「畏れ」は人を神に近づかせ、神と隣人を愛する(大切にする)ことへと向かわせます。
年間第30主日:イエスに呼ばれた「本道」の道のりは、いかに、・・・
イエスは一人の人の悩み、悲しみ、苦労、辛さ等、すべてのみじめな人間の姿をも見逃さないやさしさと配慮をお持ちです。そして、一端「本道」に招かれた後にたどる「道」はと言えば、きょうの福音の目の不自由な人がたどる「道」の体験なのです。
年間第29主日:イエスの生涯を貫いたのは愛、わたしたちのそれは何なのか
「仕える」こと、これは、他人の幸せのために尽くすことを求める言葉であり、行いです。イエスは人々から軽蔑され、ののしられ、捨てられ、打ちのめされたにもかかわらず、わたしたちのために、実際にそうなさったのです。
年間第28主日:人生苦、信仰の暗闇の真っただ中にいる「わたし」は、何をしている
イエスの意に沿うために、邪魔になっているもの、それが一番、その人にとって信仰を深める壁になっているということでしょうか。「わたし」にとっての邪魔ものは何?ありのままの自分をしっかりと見つめ、イエスの前で認め、そのままの自分を差し出すことができれば、・・・
年間第27主日:わたしたち互いの交わりは、永遠を見つめ、前に進んでいる
結婚の誓いは期限付きではなく、お互いがその命を神に返す時まで、つまり、永遠を見越した約束です。人間の営みはすべて、永遠に向かっています。イエス・キリストは、そのためにご自分を十字架上にささげられたのです。互いの交わりを深め高めてこそ、社会のひずみ、寂しさも正常化されていくのではないでしょうか。
年間第26主日:真の救いは十字架の神秘の中に⇒自己放棄を願い、祈る姿に
イエスが意図した救いの姿、それはイエスの生き方そのものに、十字架の神秘の中に潜んでいます。それは、イエスは、人間一人ひとりを大切にし、自分を中心に考えるのではなく、わたしたち一人一人を中心に動かれたのです。
年間第25主日:古傷に拘らず、ありのままの自分を差し出すことが出来れば…
弟子たちもわたしたちと同じ弱い、醜い、時には、いやらしい不足だらけの人間でした。彼らはそのことを認め、受け入れ、そこにとどまりながら謙虚さを学んでいったのでした。そして、イエスに出会う恵みをいただいたのでした。
年間第24主日:試練は「神の思い」と「人の思い」の違いの大きさから
イエスがペトロに「サタン、引き下がれ」と命じたのは、イエスの前に出て歩むのではなく、「わたしの後に退け」ということでした。「神の思い」と「人の思い」とがかけ離れているので、わたしたちには苦しみがあり、それがまた、大きいのでしょうね。
年間第23主日:イエスの奇跡の恵みは、例外なく、わたしたち一人ひとりに
イエスの奇跡は、この世にあるすべての人、そして、闇の中にあるわたしたち一人ひとりにとって、この世界に喜び輝きを与えるメシアとしてのイエスの姿が込められていると言えるでしょう。