カトリック教会の日曜日のミサで朗読される三番目の聖書(福音書)を毎週木曜日の夕方更新。2017年からは第1朗読、第2朗読の掲載も始めました。ページでは主日(日曜日のこと)ごとにそれぞれの福音書に基づいた説教へのリンクもあります。また3年周期のA年、B年、C年を簡単に閲覧できるように工夫しています。

年間第14主日:宣教=神からの救いが満ちわたるように=シャローム
「この家に平和があるように」と祈るのは、単なる「家内安全、無病息災」を祈るためではなく、むしろ、「神からの救いが満ちるように」と祈るためです。このような平和をもたらす力は、人間が生み出せるものではなく、神が与えてくれるものでなければ不可能です。

聖ペトロ 聖パウロ使徒:自らをよく知って、霊の導きに気づきましょう
両使徒はそれぞれに託された使命を果たし、イエスの栄光を讃え、人々に福音を伝えました。二人に共通するのは、イエスへの信仰が深く強いこと、ことに対して熱心で一生懸命であること、何よりも自らの弱さをよく知っていたのではないかと思われます。

キリストの聖体:ご聖体を通してイエスの気持ちに近づく
「五つのパンと二匹の魚」は弟子たちの現実です。自分たちの力だけに頼るときに、その先には絶望が待っています。しかし、それを一旦ありのままにイエスの手に委ねてから再び受けるなら、すべてが満腹し有り余るほどの豊かさとなります。イエスはその優しさと赦しと愛を与え続けるのです。

三位一体:神の内面の神秘⇒イエスを通してすべてをわたしたちに啓示された
今日は三位一体の主日---わたしたちの知性では、とうてい知ることのできない神の内面の神秘です。神はご自分の内面に留めておくことをしないで、イエスを通して、そのすべてを啓示してくださったのです。

聖霊降臨:わたしたちを、神の子にふさわしく変える神の霊
わたしたちは神に助けを求める方に向いたとき、神の子としてふさわしいものに変えられていくのです。このことを実感し、どう祈ったらよいかを取り次いでくれるのが霊です。「神の霊によって導かれる人こそ、神の子である」

主の昇天:イエスによって、わたしたちは新たないのちに生き始めています
人々はイエスが神であることを見落としていました。このイエスが天に上り、神の右の座に就いておられるのですから、わたしたちは罪の重荷からすでに解放されているのであり、新たないのちに生き始めています。

復活節第6主日:真の絶対的な平和⇒神の手の中にあるという信仰からくる
イエスは弟子たちとの別れに当たり、一度はどん底の闇に弟子たちを突き落とすものの、新しい希望を与えることを約束されます。それは「平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」といわれます。

復活節第5主日:わたしが愛したように⇒自分を無にして相手に捧げつくす
イエスの愛は全く純な心で、すなわち、自分を無にして相手に自分を捧げつくすのです。イエスの十字架はまさにそうでした。そのような隣人への愛し方、ここに「新しさ」、これまでの旧約の教えとの違いがあります。

復活節第4主日:わたしたち一人ひとりは、父と子にとってかけがえのない存在
信仰者の絆は、羊と羊飼いの間にあるような絆なのです。それは父と子によって支えられる絆です。つまり、羊であるわたしたちは父と子にとって、かけがえのない存在なのです。

復活節第3主日:復活したイエスの愛と強さの実感を「わたし」にも
現状を打破して立ち上がろうとするエネルギーはどこからくるのでしょうか。一人一人異なるかもしれませんがエネルギー源はあるんです。「希望」という明かりにたどり着くための道のり、早く探し当てられますように。

復活節第2主日:復活の歓喜の中で、神のいつくしみを思い、地の面を新たに
イエスがトマスに言われた「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」という言葉は現代のわたしたちへの励ましであり、招待状でもあります。神はいつでも両手を広げて待っています。否、わたしたちの近くに立って、座って、共に動いてくれています。

復活の主日:上を向く人には、イエスの復活はどんな時・場合でも希望に繋がる
イエスの死は、死ではないということが啓示されました。これが復活の信仰です。そして、絶望におおわれた心を希望に駆り立て、悲しみにつつまれた心に喜びを与えるのがキリストの復活です。

受難の主日:人間の醜さの中で浮かび上がるイエスの愛、やさしさ、平和の原点
無罪でありながら刑を強いられているイエス。普通に見れば、心は乱れ、不正な裁判に対する怒りと恨みがあってもおかしくはないのに、イエスはご自分を十字架につける者たちのために祈ったのです。

四旬節第5主日:神は人がどんな罪を犯しても、赦そうとして待っておられる
姦通の現行犯で捕まった女性に対し誰も石を投げる者がいませんでした。もし投げる者がいたとしたら、イエスは何とおっしゃったでしょうか。このことを黙想するのも有意義だと思います。神はそもそも、人がどんな罪を犯そうとも赦そうとして待っておられます。

四旬節第4主日:罪とは?「いなくなった息子」「生き返った息子」を基に…
今日の福音では聖書が言う「罪」とは、が見えてきます。関係が求めるものに誠実に応える時その人は「正しい」。その関係を破るとき「罪」を犯したとなります。「放蕩」の代償は散々なものでした。それでも、息子は自分の罪に目覚め、本来の関係修復ができました。

四旬節第3主日:歴史は人だけで動いているのではない、神も関与している
たとえ話の中で、ブドウ園の主人とその管理を委ねられた園丁の会話を通して 、神の忍耐と葛藤が描き出されています。神はじっと忍耐強くどこまでも待っておられるのです。神とともに働く人を求めています。

四旬節第2主日:祈りはいつでも、どこででも、今の環境のもと神に向けて
人間の思いとしては、祈る場所、時はとても大事なことかもしれません。でも、置かれた環境で目覚めている限りが「その時」です。その時その時にあふれ出てきた思いが、自ずと言葉になって、訴えや嘆きの叫びになって出てくるものなのでしょう。

四旬節第1主日:わたしたち人間の人生は、みな神に向けられたものです
四旬節の始まりです。一日一日をもっと効果的に生き抜くために、すべてが神に向けられた一日一日であることを思い、意識し、確信できるように恵みを願いましょう。

年間第8主日:人との繋がりはおおらかに待つ心で、よりあたたかく・・・
現実の人間関係を生きる時、イエスのそれを範として生きていくべきだと、きょうの福音は勧めています。人とのつながりを一人ひとりが変えていく意識を持つならば、丸太を除いておが屑を除去したもっとあたたかい希望に満ちたものに必ず成長し、発展します。

年間第7主日:日々のいつもの動きの中で、「神を信じ切る心」が醸成される
現代に生きるわたしたちは「信じているつもり」で終わっていないか、信仰を深め高め、豊かにしていくには日々の小さな、卑近な生き方の中で、膨らんでいくものでしす。わたしたちがいるべき場所にいて初めて、神も関与してくださいます。