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カトリック教会の日曜日の説教

2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第33主日:現実の生活の中で、神の保護を実感し、苦しみを超えていけますように!

信仰者であるわたしたちにも、信仰者であるがゆえにイエスさまの歩いた道を生きることになるのです、と宣言なさいます。しかし、「あなたがたの頭から髪の毛一本失われることはない」と、わたしたちへの保護も約束なさいます。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第32主日:大事なことは、「朽ちない」ものを選択できる訓練を重ねること

私たちは目先の幸せ、豊かさに惹かれ、本物を見失う弱さがあります。しかし、その環境の中で、少しずつではあっても、「神に似せて創られた」存在者として、前進できる恵みをもいただいています。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第31主日:ザアカイは一夜で変わった!琴線に触れる言動には大きな力がある。

人の心の琴線に触れることの体験は、その人を新たな自分に気付かせる力を持っています。今日のザアカイはまさにそうした状況にあるのでしょう。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します」と、ザアカイに決断させるほどのエネルギーです。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第30主日:神の心に触れる祈りが、神のあわれみを引き寄せます

【祈りのポイント】育ちや経歴の良さには関係なく、神の心に触れる祈りができるかできないかが、神のあわれみを引き寄せる分かれ道となりそうです。神のあわれみにまっすぐに響く祈りは、・・・?!
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第29主日:神により頼む人の祈りと態度は、必ず神の心に響き伝わる

神は何も聞き入れてくれないではないか、と思える時でも、わたしたちの助けを求める声は、神の心に響いているのです。神の沈黙は、わたしたちにはわからない神の計画があるからです。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第28主日:イエスは重い皮膚病患者の「かぎりの叫び」を聞き届けた

重い皮膚病で人からは敬遠されて相手にされない中で生きざるを得ない人が民衆の前に出ることが、いかに勇気のいることか。声をかぎりに遠くからイエスさまに呼びかけるしかできなかったのです。イエスさまはその人の「かぎりの叫び」を聞かれます。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第27主日:「神の子」という自分の名前に誇りがありますか?

日本人は律義であると言われます。特に、人の名前に関してはとても敏感な反応を示すようです。ところが、名前は名前でも、日常、わたしたち自身、あまり気にしないで使っている名前があるようです。「日本」国名は「にっぽん」ですか、「にほん」でしょうか。実際にはあまり気にしてないですよね。どのような使い分けをしているのか、自分でもはっきりしませんが。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第26主日:周囲に「ラザロ」はいませんか。ラザロに出会った時どうしますか?

教会は「今」を大事にするように言います。それは、今の生き方のその先に、来るべき世の生き方への繋がりがあるからです。したがって、この世でどのように生きるかがいつも問われ続けます。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第25主日:人が追い詰められたときの着眼点は「抜け目なさ」です

イエスさまの話に留まりながら、じっくりとみことばを読み込んでいきますと、イエスさまは不正な管理人のやったことの真似をしなさい、と言うよりは、彼の「抜け目なさ」をほめ、不正な富で友をつくりなさいと言われています。「不正な富」とは不当なやり方で得た富というよりも、天の国に対して「この世の富」の意味合いと考えた方がいいでしょう。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第24主日:いつくしみの神は「落伍者」がでることを望まない。

今日の福音に登場する話、迷った子羊、銀貨を失った婦人、放蕩息子の話に共通することといえば、「いつくしみの神」が描かれていることです。失ったものを捜しあてた時の喜びは何とも言えない安堵感を与えてくれます。イエスさまもそのような温かい心でわたしたちに迫ってこられるのです。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第23主日:現世的なことに囚われ、確かな価値を見失わないように!

今日のイエスさまの弟子たるもののきびしい条件は、現世的な利益と安寧を求める時代背景の中で語られたものです。わたしたちも現世的な価値観にとらわれ、目先の幸せや利益に目がくらむことはよくあります。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第22主日:すべてを先に、神が無償で配慮して下さっています

オリンピックに参加できた選手、観衆の皆さんは、自分の能力と謙虚さと新しい自分を発見する尊い場をいただいたのではないでしょうか。「自らへりくだる者」、自分を発見したいものです。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第21主日:子どもはイエスさまに出会うための条件を自ら備えている

「狭い戸口」と「幼子」はつながっているような気がします。子どもは未熟ですから自分を任せます。他者からの手助けを拒みません。さらに、そこにいることで人々に元気とやすらぎを与えてくれます。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第20主日:イエスさまの厳しいことば「嘆き節」をやめてもらうには

民衆のイエスさま理解は、どこか地上的過ぎて恣意的なにおいがするものでした。イエスさまを誤解してしまったのです。その結果、即物的な救い、安寧を期待してしまい、誰ひとりイエスさまとともに燃えあがる人が出なかったのです。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第19主日:神が付加価値を与えて下さる。神に希望をおきなさい。

日常性の中で、いつ、どのようなことで神の関与を感じているでしょうか。神がすべてであるという実感をどのように表現しているのでしょう。それができた時に、確実にイエスさまの、福音の証人となることができるのでしょう。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第18主日:人生の最終目的は、神との直接な出会い(天国)です

天国は、この世の延長上にあります。わたしたち一人ひとりの人生は、隣人(他者)との出会いを通して、神との出会いに向けられています。だから、今の生活で、日々の小さな積み上げを大事にしたいですね。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第17主日:祈る人は「負け組」だと思ったら、それは大きな誤解です

「主の祈り」は神の動きを知らせ、その豊かな愛に自分をゆだねるように、その道を開かせてくれます。自分の限界に目覚め、他者(神)への寄りかかりを尊い、大事なものにしていけますように。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第16主日:神が一番喜ぶことは、愛にあふれたおもてなしです

マルタに愛がなかったということではなく、その愛の心で、マリアの見えない心の世界を、みつめてあげることではなかったのかということでしょうか。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第15主日:お互いが安心でき、やすらぎを得られる関わりを広げたい

日頃は人を感動させる言葉を発していても、愛情がこもっていないと、その感動は打ち上げ花火で終わってしまいます。水の波紋のように広く、あざやかに繋がっていかないのです。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第14主日:権威をいただいた者の誘惑は、権威の乱用です

派遣される一人ひとりが、人生のさまざまな労苦、重荷を背負いきれないでいる人に共感し、人間が持っている惨めさ、悲惨さに向き合う姿勢を学ぶためにいただく「権威」なのです。