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カトリック教会の日曜日の説教

2011年/A年説教=神のみことば

四旬節第1主日:「荒れ野のとき」とはどんな「時」?「ノー」と言えるものがありますか

今日の主日は、神を大切にできなかった人間の姿と、おん父に対して最後まで誠実であられたイエスさまとが対比されています。さて、この「わたし」はどちらに属しているでしょうか。イエスさまは「現世的な」生き方に対して「ノー」という返事を出されたのです。
2011年/A年説教=神のみことば

四旬節第2主日:「彼に聞け」とは、本能のままではなく、イエスの生き方に学べ!ということ

イエスさまにかかわって生きる人にとって、「イエスに学ぶ」ということは避けて通れない現実です。つまり、わたしたちにとって後戻りできない生き方がそこにはあるのです。一度振り上げた手を下ろすことができないように、自ら選択した信仰の道は、前に進むしかないのです。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第9主日:真の信仰告白は、「わたしが変わること」「神を感じる」毎日になることです

信仰は徐々に育ちます。弟子たちへのイエスさまの教育も急速ではありませんでした。じっと我慢の中で、しかし着実に弟子たちは信仰において成長したのです。しかも、日常生活の中で。洗礼を受けることは「キリストを主として認めること」です。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第7主日:自分の命も他者のために開く!そうあり続けることがキリスト者の理想では

イエスさまは、ご自分が神であることを固持しようとはせず、十字架上の死に至るまでにご自分をわたされたのです。いわゆる、権利の放棄です。しかも、生きる権利を人々の救いのために放棄なさったのです。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第6主日:自分の内なる醜さは人には見えないが、神の前にはさらけ出されています。

自分を清めることは神から絶えず求められていることであり、一人ひとりがそれに取り組んでいくならば、地上の平和も実現します。その根本にあるものは、徹底した受容と自己放棄です。イエスさまの生き方がまさにそうでした。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第2主日:「あのかたは栄え、私は衰えなければならない」という洗礼者ヨハネの生き方

洗礼者ヨハネと弟子たちとの出会いは、弟子たちにとって恵みのときとなりました。そうなったのは、弟子たちの心の持ち方もさることながら、ヨハネ自身が何かを持っていたからでしょう。ヨハネは荒れ野で叫ぶ声、光をあかしする者、ぜいたくもせず砂漠の中で純粋に神の世界を求め救いに飢え、待ち望んでいたのです。いわゆる、神に対する情熱でした。
2011年/A年説教=神のみことば

主の洗礼は、人間を救うためにへりくだる神の姿。イエスの十字架で完成する救いの始まり

イエスさまが、おん父との関係を生き抜いたように、「洗礼」によってできた神との関係を生き抜く恵みを願いましょう。信仰は外に見えないだけに、見せる工夫をしながら共同体の礎としていきたいです。
2011年/A年説教=神のみことば

主の公現:自分にとっての公現とは?心の渇きを覚えるとき、神は近くにおられるのです。

「博士たち」(マギ)も社会のどん底にあって、傷ついた心を癒し、安心することがなかったのでしょう。そっと聞いてみたいですね。「どうして、そんなに遠い国からベツレヘムに来たの」。そこには、彼らさえも気づいていない「大いなるものの意志」が働いているのだと思います。
2011年/A年説教=神のみことば

聖家族:現実は遅々としていても「神から与えられたいのちだ」という自覚を持ちましょう

人間の本心には、人とのかかわりの中で、豊かになっていくものが必ずあるのに、それに気づいていないだけの話です。人間の真実の価値への自覚、人への真の愛がない家庭には、本当の安らぎ平和も生まれてこないのでは、・・・。その出発点にあるのが「家庭」での交わりです。
2011年/A年説教=神のみことば

待降節第4主日:マタイがヨゼフの立場から「キリストの誕生」を伝えたかった意図を読み解く

ヨゼフの立場から「イエスの誕生」を見るとき、それは、歴史上一回しかない救いの「事実」に直結していることがわかります。改めて、神のあわれみと人間への愛に感謝するとともに、愛の具体的な現われがXmasなのだということです。
2012年/B年説教=主との出会い

主の降誕:天においては神に栄光、地においてはすべての人々に平和!

クリスマスの真の意味「天においては神に栄光、地においてはすべての人々に平和!」を実感できたときに、心身の安らぎを得ることができるようになると感じます。
2014年/A年説教=神のたしかさ

四旬節第5主日:イエスに「自分の殻から出て来なさい」と、招かれている

四旬節は回心、つまり、自己中心からの転回が求められ、新たな自己発見が叫ばれています。ラザロが出ていくために、墓の石が取りのけられました。同じように、わたしたちが出ていくために、邪魔になっているものはないでしょうか。
2010年/C年説教=神のまなざし

年間第30主日:祈りは神の心に自分の心を合わせようとする行い

祈ることが苦になるとき、むずかしさを感じるとき、隣人に対する自分のあり方はどうなのかを振り返ってみること。思い当たるところがあったら、そのわだかまりに注目してみること。そのことを訴えることも立派な祈りになります。
2011年/A年説教=神のみことば

待降節第3主日:神の訪れを心底喜べる人は自分の無力さ、貧しさを知る人

「主においてよろこべ」と、パウロは呼びかけます。病人が医者にわが身を任せきる度合いによって、よろこびに強弱があるように、神の訪れを心底よろこべる人は、自分の無力さ、貧しさを知る人であるといえます。
2011年/A年説教=神のみことば

待降節第1主日:最後の審判のポイントは助けが必要な人に手を差し伸べたかどうか?

「もっとも小さなものの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのである」(マタイ25章45節)。つまり、この「小さなできること」の積み重ねを大事にして「今」を生きることである、とイエスさまは訴えます。
2011年/A年説教=神のみことば

待降節第2主日:悔い改めとは、自分の現実から神の思いに目を転じること

自分たちの生まれ、育ちに向いている現実から、神の思いへと目を転じることを訴えています。神の思いに応える歩みを進めること、このことを強調するために「よい実を結ばない木はみな、切り倒される」と語っているようです。
2012年/B年説教=主との出会い

復活節第6主日:イエスの「新しい掟」の根っ子は神への委託

隣人愛の根底にあるのは、イエスさまが最後までわたしたちの救いのためにご自分をおん父に「委託」されたように、私たちにも神への「委託」があるかどうかでしょう。委託があればすべては可能なのです。
2014年/A年説教=神のたしかさ

復活節第2主日:恐れるな。わたしは死んだが、いつまでも生きている

この世で、どんなに強い人の悪意に押しつぶされそうになっても、それで終わりではないことを証明してくれたのが、今日のトマスへのご出現でした。「見ないで信じる人は幸い」の世界に生きているのが、今のわたしたちです。主よ、信仰を強めてください。
2012年/B年説教=主との出会い

復活節第2主日:イエスと私たちは竹馬の友。だから託せば良いのです。

トマに対するイエスさまの態度は、ひたすら癒しの言葉とやさしい表情を投げかけます。私たちもイエスさまから見捨てられることはないのです。ただ、わたしたちは賭ければいいのです。託せばいいのです。だって、イエスさまとは「竹馬の友(?!)」なのです。
2014年/A年説教=神のたしかさ

復活節第4主日:神の声を聞き分けることができる時を大事に待ちましょう

イエスさまとマリアの出会いの実りは「マリア」「ラボニ」という応答の中にすべてが包含されています。つまり、マリアはイエスさまの呼びかけを「聞き分ける」ことができたのでした。そして、信じて最期まで従っていったのでした。