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2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

カトリック典礼暦・2025年(2024年12月~2025年11月)は、主にルカ福音書が朗読されるC年。

わたしたちは、「一人ひとりがこの世に『生』を受けた」ということは、その「生」は自分以外のためにも生かされる「いのち」であるということでもあるのです。

そのことをわたしたちに示されたのがイエスご自身でした。イエスの一日一日は、全くその命を父である神に託した(委託)生涯だったのです。わたしの道もそうなのです。が、わたしたちは時にそのこと嫌がります。「委ねる」ことができないのです。「託す」・これは信じる者の心底にあるもの、日々会得、体現していきたいです。主の恵みのうちに、・・。

「主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。 歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる。 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに 主よ、あなたはすべてを知っておられる。」(詩編139の1~4)

であれば、わたしたちは安心していいはずなんですが、・・。でも、イエスと同じようにはいかない。自らの置かれた場(役目)に目覚めましょう。

2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

聖霊降臨:わたしたちを、神の子にふさわしく変える神の霊

わたしたちは神に助けを求める方に向いたとき、神の子としてふさわしいものに変えられていくのです。このことを実感し、どう祈ったらよいかを取り次いでくれるのが霊です。「神の霊によって導かれる人こそ、神の子である」
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

主の昇天:イエスによって、わたしたちは新たないのちに生き始めています

人々はイエスが神であることを見落としていました。このイエスが天に上り、神の右の座に就いておられるのですから、わたしたちは罪の重荷からすでに解放されているのであり、新たないのちに生き始めています。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

復活節第6主日:真の絶対的な平和⇒神の手の中にあるという信仰からくる

イエスは弟子たちとの別れに当たり、一度はどん底の闇に弟子たちを突き落とすものの、新しい希望を与えることを約束されます。それは「平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」といわれます。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

復活節第5主日:わたしが愛したように⇒自分を無にして相手に捧げつくす

イエスの愛は全く純な心で、すなわち、自分を無にして相手に自分を捧げつくすのです。イエスの十字架はまさにそうでした。そのような隣人への愛し方、ここに「新しさ」、これまでの旧約の教えとの違いがあります。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

復活節第4主日:わたしたち一人ひとりは、父と子にとってかけがえのない存在

信仰者の絆は、羊と羊飼いの間にあるような絆なのです。それは父と子によって支えられる絆です。つまり、羊であるわたしたちは父と子にとって、かけがえのない存在なのです。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

復活節第3主日:復活したイエスの愛と強さの実感を「わたし」にも

現状を打破して立ち上がろうとするエネルギーはどこからくるのでしょうか。一人一人異なるかもしれませんがエネルギー源はあるんです。「希望」という明かりにたどり着くための道のり、早く探し当てられますように。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

復活節第2主日:復活の歓喜の中で、神のいつくしみを思い、地の面を新たに

イエスがトマスに言われた「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」という言葉は現代のわたしたちへの励ましであり、招待状でもあります。神はいつでも両手を広げて待っています。否、わたしたちの近くに立って、座って、共に動いてくれています。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

復活の主日:上を向く人には、イエスの復活はどんな時・場合でも希望に繋がる

イエスの死は、死ではないということが啓示されました。これが復活の信仰です。そして、絶望におおわれた心を希望に駆り立て、悲しみにつつまれた心に喜びを与えるのがキリストの復活です。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

受難の主日:人間の醜さの中で浮かび上がるイエスの愛、やさしさ、平和の原点

無罪でありながら刑を強いられているイエス。普通に見れば、心は乱れ、不正な裁判に対する怒りと恨みがあってもおかしくはないのに、イエスはご自分を十字架につける者たちのために祈ったのです。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

四旬節第5主日:神は人がどんな罪を犯しても、赦そうとして待っておられる

姦通の現行犯で捕まった女性に対し誰も石を投げる者がいませんでした。もし投げる者がいたとしたら、イエスは何とおっしゃったでしょうか。このことを黙想するのも有意義だと思います。神はそもそも、人がどんな罪を犯そうとも赦そうとして待っておられます。
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四旬節第4主日:罪とは?「いなくなった息子」「生き返った息子」を基に…

今日の福音では聖書が言う「罪」とは、が見えてきます。関係が求めるものに誠実に応える時その人は「正しい」。その関係を破るとき「罪」を犯したとなります。「放蕩」の代償は散々なものでした。それでも、息子は自分の罪に目覚め、本来の関係修復ができました。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

四旬節第3主日:歴史は人だけで動いているのではない、神も関与している

たとえ話の中で、ブドウ園の主人とその管理を委ねられた園丁の会話を通して 、神の忍耐と葛藤が描き出されています。神はじっと忍耐強くどこまでも待っておられるのです。神とともに働く人を求めています。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

四旬節第2主日:祈りはいつでも、どこででも、今の環境のもと神に向けて

人間の思いとしては、祈る場所、時はとても大事なことかもしれません。でも、置かれた環境で目覚めている限りが「その時」です。その時その時にあふれ出てきた思いが、自ずと言葉になって、訴えや嘆きの叫びになって出てくるものなのでしょう。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

四旬節第1主日:わたしたち人間の人生は、みな神に向けられたものです

四旬節の始まりです。一日一日をもっと効果的に生き抜くために、すべてが神に向けられた一日一日であることを思い、意識し、確信できるように恵みを願いましょう。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

年間第8主日:人との繋がりはおおらかに待つ心で、よりあたたかく・・・

現実の人間関係を生きる時、イエスのそれを範として生きていくべきだと、きょうの福音は勧めています。人とのつながりを一人ひとりが変えていく意識を持つならば、丸太を除いておが屑を除去したもっとあたたかい希望に満ちたものに必ず成長し、発展します。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

年間第7主日:日々のいつもの動きの中で、「神を信じ切る心」が醸成される

現代に生きるわたしたちは「信じているつもり」で終わっていないか、信仰を深め高め、豊かにしていくには日々の小さな、卑近な生き方の中で、膨らんでいくものでしす。わたしたちがいるべき場所にいて初めて、神も関与してくださいます。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

年間第6主日:イエスの熱い言葉は、いつも貧しい人たちの生きる源

神に向かってぬかずくのは、願いごとをかなえてもらうため、おねだりというよりも、今の「わたし」の生き方の指標を仰ぐためです。神の前にぬかずいてみましょう。いい黙想ができるのではないでしょうか。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

年間第5主日:召命の出発点は弱さを自覚し、独りよがりから抜けること

召命の出発点には自分の弱さの自覚がある、ということです。このことは現代でも同じではないでしょうか。ペトロは万策尽きた状況を告白しながら、キリストを信じキリストに委ねたのです。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

主の奉献:ひざまずいて願望成就のおねだりではなく、神の指導を仰ぎたい

イエスは自らの居場所を捨ててわたしたちと同じ境遇を選択なさいました。きょうの福音に言われている、わたしたちの救いのために、苦しみをその身に受けるためです。わたしたち人間への最大の配慮であり、恵みです。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

年間第3主日:イエスの自己開示、それは救いの始まり宣言である

自己主張、私見を披露することはいいことですが、場合によっては、慎重に対応する術を講じる必要もあるでしょう。じっくりと確かめる心を持ちつつも、十字架上で亡くなったイエスのかくされた神秘に、少しでも迫ろうとする心は、大切にしたいものです。
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