待降節第3主日(C年)の説教=ルカ3・10~18
2021年12月12日
わたしたちの日々は、いつも順風満帆とはいきません。誰しもが経験上わかっていることではあります。それでも、元気に楽しく生きたいと思い、努力しているのも事実です。つまり、「幸せ」でありたいと願い、それなりに努力しています。
Sr.渡辺「置かれた場所で咲きなさい」
長いこと自分が望んでいたものを取得した時、その幸せ感を味わいますが、だからといって、持続していく「幸せ感」であるかといえば、そうでもないのではないでしょうか。なぜって、果てしなくその欲望は広く、高くなっていくからです。
ノートルダム清心学園理事長・渡辺和子シスターの著書、「置かれた場所で咲きなさい」という本を思い出します。彼女は英語のある詩を引用して言っています。「《置かれたところで》咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神があなたをここにお植えになったのは間違いではなかったと、証明することなのです」と。そして呼びかけています。「境遇を選ぶことはできないが、生き方を選びことはできる。『現在』というかけがえのない時間を精一杯生きよう」と。
地域おこし「川尻元気プロジェクト」
指宿市開聞川尻地区に住む老若男女が集い、地区外から訪れる人が楽しめるスポットを作ろうと、花の苗植えを始めました。
同地区の地域おこし団体「川尻元気プロジェクト」が企画したものです。所有者から234平方メートルを無償で借り受け、竹やぶを開墾しました。目の前には「火山の宝石」と呼ばれるオリビン(カンラン石)が採取できる砂浜への下り口があり、ここを、地区外から訪れる人が楽しめるスポットにする狙いがあるのです。
花植えには、保育園児から高齢者まで老若男女が集まり、ロープを張って一列に並べた苗を一時間半ほどで植え替えていきました。川尻長寿会の内田國昭さん(76歳)は、「一人ではなかなかできないこと。みんなで協力してきれいな町にしたい」と言われます。東京から移住6年目の農業浦野敦さん(45歳)は「この景色が好きで移り住んだ。路地から海へパッと視界が開ける眺めをたくさんの人に楽しんでほしい」と話しています。この日はポピーを植えました。(南日本新聞2021年12月7日朝刊)
やはり人は、自分たちが成した仕事、奉仕作業が、他者に、それも多くの方に喜んでもらえるのが何と言っても嬉しく、やりがいと生き甲斐を感じてしまいます。これが普段の人間の心情ではないんでしょうか。それによって、さらに自分磨きにエンジンがかかるものです。そして、繰り返しの中で、徐々に品格も備わってきます。やっていることにも、その完成度に箔がついてくるものです。人間の「重み」は、こうしてその人に備わっていき、次第に「重鎮」としてその存在感も増していくのでしょう。
生活そのものが”信仰宣言”を目指して
さらに、その「人の重み」が「信仰者」としての「重み」となって、その人の生活そのものが「信仰宣言」となり、自ずと救い主に出会う準備となっていきます。これは、毎日のことであるのでしょうが、特に待降節のこの時期に、今一度、深く意識してみたいことであります。
洗礼者ヨハネは、民衆に「わたしたちはどうすればいいのですか」という気付きを引き出すほどのメッセージを伝えたのです。救い主に出合いたいという切実な思いを抱いているでしょうか。そう願っているでしょうか。毎年めぐってくる年間行事の一つとして消化しようという安易さに流されていないでしょうか。キリスト降誕を迎えるという、今の「わたし」の認識はどうなっているでしょうか。
「私たちはどうすればよいのですか」
つまり、ヨハネの時代における民衆は、長年にわたって「救い主」の到来を待ち焦がれていました。そのあまりの長さゆえに、救い主が訪れるという期待感は維持しつつも、「待ちくたびれ感」が勝ってしまっていたのでしょうか、年間行事の一つとしての雰囲気に流されていたのです。
このような状況の中で、ヨハネの説教が響き渡りました。そして、長い期間にわたって受け継がれてきた「祈りながら」待っていた願いに、ついに答えが出されようとしていたのです。単に通り一遍のことではなかったのです。ヨハネのメッセージは人びとの心を変え、生き方を変えざるを得ないほど、生活に密着した出来事だったのです。人びとは切実な思いを込めて「では、わたしたちはどうすればよいのですか」とヨハネに尋ねてきたのです。惰性に流されてきた人々にしてみれば、どんなことでもして「救い主」を迎えますよ、という決意がありありだったのではないでしょうか。
各人が置かれた場に応じた愛の実践を
他方では、それだけに、ヨハネから厳しい条件が出されるものと期待していたのでしょうか。しかし、ヨハネの答えは、尋ねた人々の置かれている立場、仕事の内容に応じた愛の行い、隣人愛の実践でした。生活の具体的なその場におけるやさしさ、思いやり、いたわり合いのすすめをしたのです。それはとりもなおさず、救い主を迎える最高の準備となるのだということを、ヨハネは説いたのです。
渡辺和子シスターも、川尻地区の住民のみなさんにしても、それぞれにおかれた場所で、置かれた立場を受け入れ、精一杯「生きること」が、救い主を迎える大きな準備になっていくのですね。同時に、それは、人々みなの、一人ひとりの喜びとなっていきます。
今のわたしたちも、生活の現場で、生き甲斐、生きる充実感を覚えるものは何でしょうか。それを見つけましょう。神は何も、いつもと違う、よそ行きの服装をし、特別なことをして準備をしなさいとは言われないのです。普段着のままで、その場に望まれる普通のことをするのです。今一度、真剣に考えてみましょう。
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