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年間第2主日:イエスは日常の「些細なこと」でも取り上げて下さる

2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」

年間第2主日(C年)の説教=ヨハネ2・1~11

2019年1月20日

仏教用語のご利益(ごりやく)から

「利益」は、一般的には「りえき」と読みますが、仏教では「りやく」と読みます。

「ご利益というと仏さまや神さまにお参りし、その結果として病気がなおるとか、商売が繁昌するとか、を連想します。しかし、これではプロローグとエピローグだけを見ているようなものです。肝心な真ん中の部分が抜けています。

ご利益は、ためになること、他人を益すること、仏さまから与えられる恵み、といった意味で、善行の結果として得られるものです。仏さまの正しい教えを守り、それを実践することで、自分以外の人にプラスとなるような働きをすることで、自らも仏さまからの恵みを与えられることです。

例えば参拝の折にあげるお賽銭は、みんなが気持ち良く参拝出来る環境が、維持されることを願い浄財を供えます。この善行の結果として、自分自身の願いも叶うように、仏さまが恵みを与えてくれることになります。浄財とは正しい行いで得たお金で、自分以外の人の為になる使い方をしたお金を言います」。(「やさしい仏教入門」より)

国民性や個人で、多少の差はあるが

わたしたちはどの国に生活していようとも、その国の政治的、経済的、また自然界の環境の中で生きています。それにより、「国民性」と呼ばれるその国の文化を自ずと身に帯びていきます。そこから母国への愛が育ち、生きていく力も湧いてきます。したがって、どんなに些細なことからも影響を受け、恩を感じ、そして、お互いが生き、育っていくのに多大な力となってくれます。

そして、生きていく苦しみもあれば喜びもあります。楽しみ、期待に満ちた充実した日々を過ごしているかと思えば、逆に、落ち込んで元気も希望もなくしてしまいそうな日々もあります。その原因が、他者からみますと、大したことないのにと思われるのかもしれませんが、当の本人にとっては重大なことなのです。それぞれに個人差があります。

酒は楽しい宴会には欠かせないもの

いつの時代もいえることではないかと思いますが、大して重要なことでもないながら、欠かすことのできないものがあります。その一つに「酒」があります。これは嗜好品なので好きな方にとっては重要です。一方で嫌いな方にとっては見たくもないものでしょう。しかし、お好きな方にとっては日常的な飲み物です。そして、宴会には欠かせないものでもあります。

年間第2主日:イエスは最初のしるしをガリラヤのカナで行った
年間第2主日(C年)の聖書=ヨハネ2・1~11 〔そのとき、〕ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、

今日のイエスはこうした場に出席されています。招待を受けられたのです。婚宴という華やかな席でした。イエスの母と弟子たちも招かれていました。そして、イエスの人との関わり方が展開されていきます。

イエスに対するマリアの言動に着目を

親子の人間関係は他の人々との人間関係の原点です。それと同時に、わたしたちの具体的な生活現場でもあります。人間の営みのすべてがそこにあり、そこを出発点としてイエスは関りを広めていくのです。婚宴の場はそのためのうってつけの場でした。社会とのかかわりを広げ、深めていくこと自体が、神の人間に対する恵みを、明らかにすることにつながっていくのです。

そのかかわりの内容は言うまでもなく、わたしたちが日々体験している喜び、楽しみ、また、悲しみ、苦しみ等、人間の営み全体です。このような関わりをどうしてイエスが持つのかと思うに、人間の生きざま自体が、神の恵みを求めているということを示しているのではないでしょうか、と考えられます。つまり、一日一日の具体的な場面で、その瞬間の場面で、神からの支え、助けがなければ、わたしたちは生きておれないのです。一人ひとりがそのことに気づくか気づかないかに関係なくです。

現に、わたしたちの喜び、楽しいひと時も、はかなく、もろいものです。楽しい宴会の席で、主役を演じることはない「酒」がなくなると、嬉しさ、楽しさのトーンも下がってしまいます。欠かすことはできないのです。喜びも楽しみも、些細なことから台無しになっていくことは、わたしたちの日常で何回も経験していることです。

マリアに倣いすべてを神に差し出そう

そこで、マリアはそっとイエスに囁きます。「ぶどう酒がありません」と。さらに、給仕している人たちにも言います。「何でもこの人の言うとおりにしてください」と。こうしたマリアの配慮は、イエスがいつどのような形であれ、人の営みに関わってくれるであろうというマリアの確信の現われです。このマリアの姿からわかることは、わたしたちの日常のどんなに「些細な」ことでも、神の前に差し出すことができるということです。「これはふさわしい」「ふさわしくない」という判断を、自分でしないことです。そのままの姿を示すことが、伝えることが大事なのです。

それらをイエスが受け止めてくださったときに、心底、安心できる喜びが与えられることを伝えているのが、今日の「カナの婚宴」のお話ではないでしょうか。給仕の人も、宴席にいた人々皆が感じた「喜びの宴」となったことでしょう。

わたしたちの日常も同じように配慮してくださっています。些細なことかもしれないものを差し出しているでしょうか?! そうすることは「ご利益」のプロローグとエピローグに過ぎないこと?

神はいつも「わたし」のそばにいてくださいます。

【1月20日】年間第2主日(C年)の聖書はこちら

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