年間第2主日:神との関係で方向転換を!そこに人の本来の生きる姿がある

「神への道標」

2018年説教の年間テーマ「神への道標」

年間第2主日(B年)の説教=ヨハネ1・35~42

2018年1月14日

「朱に交われば赤くなる」と言います。人は、その 環境や交際する友だちによってよくもなるし悪くもなるというたとえ。また、よい友だちを選びことが大切であるという教えでありましょう。

教皇が呼びかける4つのエコロジカルな回心

「環境」と言いますと教皇フランシスコの回勅「ラウダ―ト・シ」の呼びかけが浮かんできます。環境問題をテーマとする回勅で、「エコロジカルな回心」を提唱しています。「エコロジカルな回心」が必要であると呼びかけた最初の人は、聖ヨハネ・パウロ二世教皇でした。が、教皇フランシスコはそれを「ラウダート・シ」の中で、4つの「エコロジカルな回心」とし展開しています。

  1. 神とのかかわりの回心
  2. 他者とのかかわりの回心
  3. 自然とのかかわりの回心
  4. 自己とのかかわりの回心 ——- です。

本来エコロジー(Ecology)とは「生態学」を意味しますが、略してエコという呼称で、わたしたちにもしっかりと馴染んでいます。近年では、エコというだけで、人間生活と自然環境に関する学問や運動として理解され、「環境に優しい」「環境に配慮した」「環境負荷が少ない」、さらには「健康にいい」「自然な」といったところにまで意味が拡大されているようです。

基本は、無関心でいられるものは何一つない

教皇フランシスコの考えの基本は「あらゆるものはつながっている」という視点であるといえます。したがって、この地上で無関心でいられるものは何一つないので、世界中の皆で環境問題を共有し、その解決のためにあらゆる分野の人、哲学者や科学者、エコロジー運動を主導している人々、諸宗教の人々と対話を促進しようと呼びかけておられます。

カトリック教会がいう「エコロジー」とは、自然とのかかわりだけでなく、人間の持つあらゆる側面を排除しないという全人的な意味と、人間同士のかかわりも神とのかかわりも、それら全部を含む「総合的(integral) なエコロジー」なのです。インテグラル(integral) という言葉は、元来「まるごと、全く傷のない」という意味ですが、近年、「完全なもの」「全人的、統合的」などと多義に訳されています。

環境も、人間が引き起こした環境問題となりますと、現在、地球上で深刻化している環境破壊の実態が科学的に説明され、それらが人間の利己的、自分勝手な、また、自国勝手(ファースト)な経済活動によって、複雑かつ連鎖的に引き起こされていることがよくわかります。

こうした歴史の中に生きてきた人間も、「朱に交われば赤くなる」のです。「技術至上主義」「利便性向上主義」は、現実には、世界各地で人間と社会と自然との調和を崩し、むしろ、人間の生活を脅かし、不幸にする事象を引き起こしているといえるのではないでしょうか。

人間性の刷新なくして環境問題の解決はない

すべてのものがつながっているという視点で環境問題と向き合えば、人間性の刷新なしに、自然とのかかわりを刷新することは不可能ではないでしょうか。つまり、人間自身の内的調和を回復する回心が求められているのです。回心とは、これまでの誤った生き方を、ただ後悔するだけではなく、神からの呼びかけの方向に向きを変えること、方向転換することが求められます。あるべき姿に立ち帰ることでしょう。

神からの呼びかけに方向転換した弟子たち

今日の洗礼者ヨハネは、そのことを自分の弟子たちに伝えようとしています。ヨハネの二人の弟子たちは、「その日はイエスの所に留まった」のです。共に「留まる」ことによって「朱に交わる」ことができます。二人がイエスさまについて行ったきっかけは、「見るがよい。神の子羊だ」というヨハネの一言でした。その言葉に促されてイエスさまのもとに留まった彼らは、「わたしたちはメシアに出会った」と証言するまでに変化した自分を体験したのです。すなわち、イエスさまが神とどのような関係にあるのかを見て、信じることができたのです。

年間第2主日:イエスは「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。
年間第2主日(B年)の聖書=ヨハネ1・35~42 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。

ここから、イエスさまと弟子たちの関係も自ずと見えてきます。お互いの関係性がはっきりとしてきます。これがあるべき姿、「人間自身の内的調和の回復」と言えるのではないでしょうか。神からの呼びかけに応えることは、人間本来の姿に戻ることができることですよ、という神からの招きです。それを望むのか、期待しているのか。それとも、どうでもいいと思っているのか。「朱に交われば赤くなる」なりかたにも、違いが出てきます。

イエスさまを理解し、イエスさまに魅せられていく、そして、イエスさまとともに歩いて生きていくことが、信仰者の中心にあります。そうあって欲しいのです。そうすることで、すべて存在しているものの互いの関係性、存在評価が見えてきて、安定して生きることを楽しむことができます。「あるべき姿」とはこのことでしょうか。

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