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年間第18主日:「あなたがたが与えなさい」は現在の我々も求められている

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年間第18主日(A年)の説教

2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

年間第18主日(A年)の説教=マタイ14・13~21

2020年8月2日

無料や低価格で子どもたちに食事を提供して、地域の交流拠点や見守りの場として関心が高まっている施設に、「子ども食堂」があります。

「子ども食堂」コロナ下でこそ力になりたいが

ところが、今や「新型コロナウイルスの時代」に入っています。“ソーシャルディスタンス”、これは、人と人との物理的な距離を保って、濃厚接触を避けようという試みです。そこで、隣の人との距離を2メートル保ちましょう、と言いながらも、どうしても避けられないのが、子どもたちの集まりです。お互いに近づきすぎないように、多人数で飲食を共にすることは自粛しましょう、と言われながらも、ことの重要さを認識できない人にとっては効果がないようです。特に、幼児たちにとっては「どうして離れなくてはいけないのか」という彼らにわかるような明快な理由が、どうしても伝わりにくいのです。

したがって、子ども食堂では、集まって食事をする従来の形式での開催が難しくなっているのです。「ネットワーク加盟食堂の2割が中止、残りは弁当や食材を提供している。2月以降の休校期間、子どもは給食がなく、家で食べる機会が増えた。親の休業で経済的に苦しくなる家庭があった。どの食堂もこんな時こそ何かしたいという思いだ」とおっしゃるのは、かごしま子ども食堂・地域食堂ネットワーク代表園田愛美さんです。(南日本新聞2020年7月29日朝刊)

こうした生きる現場での助け合いの動きは、その昔、長屋形態の家屋で生活していたころは普通の姿でした。いわゆる「おせっかいの関係」でした。それが1960年代ころから「核家族」という言葉が流行り、「核家族化」が進行していったのです。

地域に長屋があった時代の「おせっかい関係」

1975年(昭和50年)以降、単独世帯、特に高齢者の単独世帯が急増しており、これは産業構造の変化(東京一極集中化)や人口の都市化、転勤などの物理的事情により、子ども世代が、長寿化してきた親夫婦と同居が困難になっている現状を示しています。別居している老親の長寿化にともなう介護問題、あるいは夫婦の共稼ぎの増加により下校後の子ども(小中学生前後)が家で独りきりになる問題が議論される原因の一つです。2015年 (平成27年)、国勢調査では34.6%に増えています。(ウィキペディアより)

自ずと、他人の言動に関与することがためらわれ、距離をとってしまうようになっていったのではないでしょうか。教育界で子育ては、「家庭・学校・地域社会」で、とよく言われますが、地域社会でのかかわりがなくなっている現代では、意味のない標語だけの掛け声になっているような気がします。

年間第18主日:群衆を行かせず、あなたがたが食べる物を与えなさい
年間第18主日(A年)の聖書=マタイ14・13~21 イエスは〔洗礼者ヨハネが死んだこと〕を聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を迫った。

さて、今日の福音の朗読は、イエスが五つのパンと二匹の魚を用いて、五千人の人々の空腹を満たしたという奇跡物語です。文字通りのことが起こったのかどうか、今に生きているわたしたちには戸惑いがあります。それよりも、今話題にしたいのは、マタイがこの話を通して何を伝えたかったのかということです。

イエスはなぜ「ここで与えよ」と言ったのか?

「五千人に食べ物を与える」奇跡は、四福音書すべてに描かれています。(マルコ6章30~44、ルカ9章10~17、ヨハネ6章1~14)中でも、マタイではこの話が洗礼者ヨハネの死と結び付けられています。また、イエスもヨハネも「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイ3章2節)といって、宣教活動を始めています。つまり、他の福音書以上に、二人の同一性を強調しているように思えます。

そして、今日の奇跡の話に登場しているのは、群衆と弟子たちとイエスです。しかし、群衆はこの話の中心人物ではなく、弟子たちです。食べ物を食べて満腹した群衆は描かれていますが、奇跡であることは知らされていません。それがイエスの力であることを知っているのは弟子たちです。

マタイはパンを与えるイエスの姿に、「主の晩餐」のイエスを見ているのではないでしょうか。魚の残りについては触れていません。人を生かすパンを与えるイエスが強調されているのです。

またイエスは、弟子たちに「あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい」といわれます。こんな「人里離れた」場所では、彼らにはなす術がなかったのです。ごく常識的な発想しかできず、どうしようもなかったのです。つまり、村に行けば食べ物にありつけるのに、・・と考え、自分たちの限界を知らされます。イエスは「ここで」与えなさいと言われるからです。

無力でも、イエスと一体になれば「できる!」

このことからわかることがあります。弟子たちは一般の群衆とは違います。イエスと長く、そして、深くかかわり、しっかりとイエスを見つめています。イエスのほうも、弟子たちを育て、役割を与えます。天の国の福音を知らせ、病をいやす権能を与えるのです。弟子たちを、ご自分と民衆の間に立てようとする意図が垣間見えます。その実、パンは弟子たちを通して民衆に与えられています。

そして、弟子たちはイエスの亡きあと、教会の指導者となる人々です。しかし、イエスなくしては何もできない彼らなのです。無力です。イエスと一体となるときだけ、弟子たちの存在が意味を持ちます。

今のわたしたち信仰者も同じです。だから、イエスに頼るのです。だから、イエスから、もっと光と力を引き出す弟子となることが求められます。そして、もっと「おせっかい関係」を赤ちゃんから高齢者までに広げて、「真の食べ物」を分配できる奉仕(宣教)ができればいいですね。

そのために、「一歩」を踏み出しましょう。

 

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