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年間第18主日:イエスなしでは無力であることの自覚を促す

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年間第18主日(A年)の説教=マタイ14.13~21

2011年7月31日

神のみことば

いまだに大きな心配事が続く東日本大震災。この自然災害で気づかされたことはたくさんあると思います。中でもわたしが感じたことは、「つながり」「絆」という人間関係のぬくもりです。

人は誰も一人で生きている人はいません。絶えず、周りの人々とかかわりを持ちながら日々成長していきます。より人間らしくなっていきます。より「わたし」らしくなっていくのです。当たり前のこととはいえ、意識させられたのではないでしょうか。いつも、わたしたちは誰かを必要としているのです。これは時代を問わず、地域を問わず、民族をも問いません。人として生きている人みなに共通することです。

「長屋住まい」の時代は、このつながり、絆を日々意識しながら生きていました。醤油がないといえばお隣からいただいたり、味噌がないといえばあるお家から分けていただいたりと、つながりがあるがゆえにごく普通にやっていたことです。その行為の奥にあるものは、互いの立場がわかっていた、ということではないでしょうか。素直に受け止めあえていたのです。「つながり」「絆」というぬくもりに結ばれて、生きるための力をいただいていたのではないでしょうか。

今日の福音では、弟子たちの救いに対する無力さが露呈されます。マタイが伝えたいメッセージは、したがって、つながっている「もの」にしっかりとしがみついていなさい、ということです。

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今日の話に登場するのは群衆と弟子たちとイエスさまです。しかし群衆は表面に出てきません。その証拠に、イエスさまの奇跡であることは群衆に知らされていませんし、それゆえに、群衆の反応もありません。中心は弟子たちの言動です。

「あなたがたの手で食物をやりなさい」といわれた弟子たちは、なす術がありません。自分たちの限界、無力さを実感します。目の前にいる飢えた人々、労苦を背負って生きている人々に対して、解決する力がありません。できるのはイエスさまだけなのです。このことを弟子たちに自覚させるのがマタイの意図したメッセージです。

弟子たちは自分の財産を捨て、イエスさまに懸けてきた人々です。他の人々より、イエスさまの身近にいて教えを受け、特別な指導を受けてきた人々です。将来はイエスさまを宣教するために任務を受ける人々です。その弟子たちが生きる意味を見いだせるのはイエスさまとつながっているときだけです。これを日々、わたしたちも自覚したいものです。それも、通常の生きかたの中で、・・・。

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