「神への道標」
2018年説教の年間テーマ「神への道標」

年間第4主日(B年)の説教=マルコ1・21~28

2018年1月28日

原点に戻ると、じっくり振り返りができる

自分が今何をしていて、どこに住んでいて、どのような状況の中に生きているのかを、振り返って考えられるような状況、環境とはどのようなものでしょうか。それは、今こうした状況にある、その出発点、原点になった場所に戻ってみることであろうと感じています。つまり、今の生活を志したきっかけ、根拠、環境がものの見事に思いだされ、じっくりと振り返りができるような気がしているからです。

自分を形成した必然、偶然の出会いや出来事など

この度、そのような体験をすることができました。その当時、自分が一番嫌っていたある出来事が、そう気にならなくなってきている自分に気付いたのです。あのころは若かったし、自分の中の正義感があまりにも勝っていたのでしょう。むきになって抵抗しなくてもよかったのに、と今になっては思いますが、逆に、当時、そうだったから今の生き方があったということもできます。とはいっても、今の自分の姿に、自ら選択したこの生き方に感謝しているのでしょうか。

自分がたどってきた過去を振り返ってみますと、たくさんの人に出会い、いろいろな出来事に出くわし、それらは、必然的であったり、偶然であったりと様々です。それでも、今の自分を形づくり、影響された人、出来事は残っているものです。

ごまかしのない真実は、人の心に素直に響く

誰でも、長い歴史の積み重ねや、誠実な人生の歩みから培われ、磨かれてきた知恵や知識が伴って、その人の品格・権威として身についてくるのでしょう。そして、他者に、自ずと伝えるべき内容、提供できる中身が伴ってくるものです。だからこそ、ごまかしがあるとすればすぐに見破られていきます。逆に、ごまかしのない真実に裏付けられているからこそ、人の心に素直にひびいていきます。そして、その人の貫禄、権威となっていくのではないでしょうか。そして、それらが後世に引き継がれていきます。

権威は、その人から自然に湧いてくる誇りと充実感に

例えば、親や教師が「権威」の本来の意味を持つとすれば、未成熟な子どもたちに、自分たちが生きてきた内容のある生き方を、見せることができるということになります。子どもたちとのふれあいは、まさに、その生き方を「生」で見せ、語り継ぐ瞬間でもあります。単に、子どもたちよりも先に生まれた者としてではなく、中身のある生き方を生きてきたという「自負心」があるからです。何も権力を笠にして子どもたちの前で威張るためでもなければ、その立場を自己正当化するためのものでもありません。むしろ、子どもを含めて、多くの人に奉仕するための「力」であるといえます。

この「心」は他者から与えられるものではなく、自ずとわいてくる「人」としての誇りと充実感からくるものでしょう。これこそが権威ある「生き方」「存在感」と言えるものではないでしょうか。その親、大人の生き方を見て、「親孝行」をしたくなる子どもたちが育っていきます。そして、後世へとつながっていきます。

民衆はなぜ、イエスになぜ惹きつけられたのか

はじめて公の場に登場し、聖書を朗読し、説明をされるイエスさまに、人々はやはり「権威」ある教え、人となりのすばらしさを感じて、そのもとに集まってきたのでした。イエスさまの持っているものを見せ、分かち合っていくときだったのです。「人々はその教えに非常に驚いた。イエスが律法学者のようにではなく、権威あるもののように教えられたからである」と、しっかりとイエスさまの持っていらっしゃる中身を受け継いでいます。イエスさまの中に偽りやごまかしは見出せません。わたしたち人間にありがちな見栄やはったりなど、何一つ民衆には感じ取れなかったのです。むしろ、惹きつけられる魅力さを伴って、力強さを感じていたのです。

御父への信頼と御父からの支えがあったから

人々はイエスさまの中に神の力強さを見ていたのでしょう。それを、当時の律法学者の語り、態度と比べて、次元の違う教えとして「権威ある教え」「権威ある者」として表現したのではないでしょうか。彼らのいわば「信仰宣言」であったといえるでしょう。名もなき一青年(イエス)の言動が、こんなにまで民衆の関心を集めたのには、やはり、イエスさまご自身のおん父への信頼と、おん父からの支えがあってのことではないでしょうか。

神に裏付けられた確かさと豊かさが、わたしたちの権威の源となっているのでしょうか。わたしたちの日常の言動の裏には、見えないところで神がそっと支えてくださっている現実があります。それに気づくことが、見栄と自惚れではなく、奉仕への道のりを歩ませてくれる原動力となっていきます。そして、いつも新しい「自分」を構築していけるのではないでしょうか。そうありたいものです。